Just different, not strange

先日、立命館アジア太平洋大学の方と対話をさせていただきました。

立命館アジア太平洋大学は、大分県の別府にあります。
学生6000人のうち、半分が海外から来た学生。
教員も半分が外国の方。
徹底して、「混ぜる教育」にこだわっている大学です

1時間ほどの対話でしたが、とてもいい時間でした。
対話の中で色々な学びをいただけたました。
特に印象的だったのが、ある学生さんの言葉です。

Just different, not strange

この感覚、「混ざる」ときには、是非前提として共有しておきたいことだと思います。
「普通」は、「異質」を排除します。
皆が皆、それぞれ違うのは当たり前のことであって、「普通」という言葉で一括りにすることにあまり意味はないし、いいも悪いもなく、ただ違うだけ、そんな当たり前のことをあえて確認してしておくことが大切なのです。
「違い」は、単純に排除されるものではないのです。

様々な国の様々な文化をもつ学生が混ざると、「ありえない・・・」と思うようなことも多々あるようですが、それはやがて「まぁ、そんなこともあるよね」となっていく、と聞きました。
それって、とてもいいなぁと思います。

開学当初の講義では、日本人のある先生が英語で授業をする際、それまで使用していた日本語のスライドを英訳してわかりやすく伝えようとしたところ、講義を受けている学生からこんなことを言われましたそうです。

30カ国もの学生がこの教室にいるのに、この授業でいいんですか?

この先生は、一生懸命準備をしてわかりやすく教えていたつもりだったので、学生さんの言っていることの真意がいまいちよくわからなかったそうです。
「混ぜる教育」ということを考えると、様々なバックグラウンドを持つ学生がいる中で、伝達型の一斉講義をすることは、多様な個性が集まる場を生かしきれていない、ということが学生さんの発言の趣旨だと思います。

こういう感覚は、様々な国の学生が集まっているからこそ持ちやすいのだと思います。
しかし、それは本当は、特別外国籍の生徒が多くないような高校でも同じなのです。
わかりやすく「混ぜる」のではなく、そもそも「混ざっている」という気付きを得る。
そうすると、その価値をどうやったら生かせるかと考えるのが自然な流れです。
「主体的、対話的で深い学び」も、こういうことをわかった上で考えるものでしょう。

APUのやっている「混ぜる教育」は、端的でコンセプトがわかりやすいですが、「あれは特別だから、自分には関係ない」と思ってしまうかもしれません。
そうではなく、「わかりやすい状況で得た気付き」を、「わかりにくい状況にどう取り入れられるか」を考えるべきなのだと思います。