ノートは必要か

[大事なこと]板書


首都大のティーチング技術講座の最終回で、松浦先生が「ノートなんかとらせないで、考えることに集中させた方がいい」ということをおっしゃっていました。
話を聞き、それに対して考えながらノートをとる、というのはかなり難しいことで、それを全員に要求するよりは、ノートをなくした方がよいという論です。


ノートやメモを取るのはどのような意味があるのか。
例えば、ホワイトボードを使ったアクティブラーニングなどでは、「頭の中の見える化」と「他者との共有」のためにそこに何かを書くのでしょう。


では、個人でつけるノートの意義はなんでしょうか
「内容を忘れないため」とか「思考を整理するため」とかあると思いますが、本当に「考えているとき」は、おそらくノートを取る必要はないし、それは思考の妨げになるだろうと経験から思います。


生物基礎の授業では、通常の「生徒の活動」とは異なる「ディスカッション」の授業を2回入れています。
「生態系の保全」と「遺伝子検査」です。
特に、遺伝子検査に関するディスカッションは、活発に参加する生徒も多く、アンケートを見ると、一年間の学習全体の中でも印象に残っているようです。
その時間の生徒の様子を見ると、ほとんどメモを取っていません。
でも、人の意見に耳を傾け、思考し、自分の意見を述べています。


自分自身の経験でも、何かについて懸命に議論するとき(「懇親会」であることが多いわけですが・・・)、ノートやメモを取るわけではありません。
でも、思考は深まります。
どうやら、「書くこと」は、「考えること」の必要条件ではないようです


ノートを取らないことで、むしろ思考にエネルギーを使える授業。
それはとても楽しそうです。
その時には、同時に「評価」の方法を提示しておく必要があります。


今までの「当たり前」を問い直す。
「当たり前でしょ」で思考停止しない。
常に頭に置いておきたい事です。


<いただいたコメント>

※重要な指摘と思いましたので、転載させていただきます。

これは、知識偏重への反動から来る思考偏重のように思えます。

ワーキングメモリの容量は限られているし、文字を使用することで、外部メモリを参照出来るようになった利点を放棄するようなものだと思います。

松浦先生の言は、多分に煽動的と思いますし、西川先生の指摘は板書の書き写しに対してのものなので、ノート一般に拡張するのは違和感があります。

私自身、シンポジウムにはiPadを持って行きますし、ノートはkeynoteに取ります。

あとで自由に組み合わせて整理できますから。

西川先生の誤解はノートを記録としてしか見ていない点で、ノートは記憶であり、自分との対話でもあります。

講演者は話したいように話し聴衆は聴きたいように聴く。

本を買うまでもない話は、メモで十分。