学ぶことはライトを手にすること

昨日、今日と、千葉県勝山でウニ採集の研修会に参加してきました。
この時期、一番潮が引くのが夜のため、防寒をしっかりして、ライトを持ち、ウニを探すことになります。


僕の使っているライトは安物で、防水性こそあるものの、非常に明かりが弱いライトです。
しかし、足元や手元を照らすことはできていましたし、ウニも採れていたので、何年もそのまま同じライトを使っていました。


今年のウニ採集は、しばらくたっても昨年までのように上手く数が採れませんでした。
そこで、採集場所をしっかりと把握し、採集場所の当たりをつけるため、「広く」見ようと思いました。
しかし、ライトの照らせる範囲は狭く、自分の周囲がどんな特徴を持ち、どこからどのように環境が変化するのかを知るのは困難でした。


強力なライトを持つ方の近くに行き、ウニのいる場所の当たりのつけ方のアドバイスをいただきました。
その方の照らすライトはあたりを広範に照らし出し、あたりがどんな環境なのかをはっきりと教えてくれました。
それは昼間と遜色ないほどです。


この時、僕はようやくにして自分のライトの限界を知りました。
また、今までそのライトで「困った」と思わなかったことに恐ろしささえも感じました。


「ブッダとシッタカブッダ」という本に、こんな話があります。
馬を知らないシッタカブッダが、馬の"一部"を何度か見る。
すると、それらのパーツをつなぎ合わせて、「これが馬だ」というイメージを作り上げる。
それは、馬の姿とはまるで違うものである。

元ネタは、仏教のこちらの寓話だと思われます。


一部しか見えていないので、勘違いをしてしまう。
でも、シッタカブッダは困っていない。
なぜなら、全体を知らない以上、「何が問題か」がわからないから。


僕自身もそうだったのだろうと思いました。
実はずっとその問題は存在していたはずなのですが、それを認識していなかった。
そして、それを何とも思わなかった。
今回たまたま、新しい「世界の見方」を知った。
そして、ずっとそこ存在していたはずの問題に気付いた。


暗闇を照らすライトを手にすると、見えないものが見えてきて嬉しくなる。
しかし、自分の見ているもの"だけ"を信じ、それ"だけ"をもとに世界を構築し、それで世界を知った気になる
「全体」が見えているものからは、「もっと広くものを見た方がよいのに」と思えてしまう。
でも、本人は特段困っていない
もしかすると、「このライトを貸してあげようか?」と言っても、「必要ありません」と言われてしまうかもしれません。


今回の体験から、「学ぶこと」は、「暗闇を照らすライトを手にすること」かもしれないなぁと思いました。
手にしたライトで見える世界だけにいつも満足してしまうと、実は大切なことを無意識に落としてしまっているのかもしれません。
でも、「広く見る」価値は、広く見たことがなければわからないものだと思います。
「学ぶ」ことは、より良いライトで視野を広げる作業かもしれませんが、それに先立って、見たことのない景色が照らし出され浮かび上がり、「こんな景色をもっと見たい」と思えることが有効なのかもしれません。
それは、教員が「新しい世界を提示し、その価値を語る」ことに対応しているように思えます。
また、それは僕自身にも言えます。
今あるライトで見える景色だけで満足してしまうことは、新たな世界への道を自ら閉ざしているようなものかもしれません。


おそらく、去年までの自分は、弱いライトで一部しか見えていなくても「たまたま」上手くいっていただけなのでしょう。
しかし、その成功体験は、必ずしも高確率での再現性はなく、少しの変化で効力を失ってしまうものかもしれない。
今回のような「失敗体験」と、その時に提示された世界により、知らなかった価値に気付くことができるのでしょう。


生徒にも、僕に見えている世界で伝える価値のある世界は見せてあげたい。
また、自分自身も、まだ見ぬ世界への探究心をいつまでも持ち、新たなライトを手にしていきたい。
学ぶことはライトを手にすること。
何だか似たような表現も聞いたことがある気がするし、使い古された概念なのかもしれませ

んが、人から与えられたものではなく、自分で獲得したこの理解こそが、自分のとっての大きな気付きと思考の進展を生み出してくれます。