”研究”と”探究”の違いを考える

SSHや生物部の課題研究を考えるためのメモとして書いてみます。


「研究」とは何か。
「探究」とどう違うのか。


このことは、考えておいてもよいことだと感じます。
「探究活動」へのハードルが依然として高いとするならば、それは「研究」のイメージがあるからかもしれません。


「目的」が違えば「活動」も異なるし「評価」も異なるはずです。
どちらが良い、何が良い、ということではありません。


あくまでも「個人の見解」として、踏み込んで書いてみます。
僕自身は、「研究」ではなく「探究」を広げていきたいと考えています。
その「違い」としては、こんなイメージをもっています。


●「新規性」があるかどうか(世界の誰も知らないことに取り組んでいるかどうか)
●「成果」が求められるかどうか(ある水準の「立派な結果」を出す必要があるかどうか)


例えば、大学の卒業研究を考えてみるとわかりやすいと思います。
学位の審査の基準として「新規性」と「一定の成果」があるはずです。
「誰かのやったことの単なる追試」とか、「アイデアは面白いけれど、何も成果が出なかった」というのでは学位が出ないでしょう。


でも、このこと自体に僕自身は違和感を持ってしまいます。
学部生のやる研究の「目的」とは何でしょうか。
それは、「学問のエッジをわずかでも広げること」もあるかもしれませんが、どちらかといえば、「学生が成長すること」なのでないでしょうか。
ここでの成長とは、「研究のお作法を知る」ことや、「研究の面白さを知る」ことだと思います。
だとすれば、「新規性」や「一定の成果」は必ずしも必要ないのではないかと思ってしまうのです。
こういったことがあるがゆえに、むしろ「逆」の影響を学生に与えてしまっているような気さえします。
「何でもいいから有意差を示すのが研究であり、有意差さえ示せれば何でもいい」とか、「とにかく言われたことをやればノルマはクリアできるぞ」とか、そんな意識を学生に植え付けることにならないでしょうか。


そんな問題意識から、僕自身、高校でどうしても「課題研究」を「探究」として広げたいと思っています。
「課題”研究”」といっても、「新規性」と「成果」から自由になれれば、堅苦しくなく、探究的な学びを楽しめるはずです。
逆に、それにこだわりすぎると、生徒も教員も苦しい思いをすることになります。
SSHや生物部の活動には、そんな苦しみを感じる活動もあると推察します。


僕にとっては、「自分の問いから始まる活動」は、すべて「探究」だと思っています。
だから、「研究」も「探究」に包含されると考えています。
しかし、これからの流れとしては、あえて「研究」と「探究」の違いを浮きだたせて、「探究」の意義を失わない程度にハードルを下げていくことが必要だと思っています。


「探究活動」に関するイベントや書籍も増え、得られる情報も格段に増えてきたように思います。
そんな溢れる情報を見る「視点」として、こんな視点もあってもいいのではないかと思っています。