哲学対話が必要な背景

考える自由のない国―哲学対話を通して見える日本の課題


ここで示されている「哲学対話が必要な背景」には納得できる部分もあります。
今の自分の授業で計画に入っているものには「哲学対話」的な要素はあっても、本当の意味でそれを実現するものになっていないのだろうと気付きました。
こういう「場」も学校教育のどこかの場面では取り入れる必要がありそうです。
その時、顔を出しそうになる「正解主義」をメタ認知し、それをどうコントロールするかが、教員にとっても生徒にとっても肝になるのかもしれません。


以下、一部抜粋と要約です。
●哲学対話では、「何を言ってもいい」「否定的なことは言わない」というルールがある(何を言ってもいいからこそ、思考に広がりと深まりが出てきて、対話が哲学的になる)。


「何を言ってもいい」ということは、世の中でほとんどない。それは自由にものを考えられる場がないに等しい。


●学ぶことは教員から与えられ、意見を言う機会はなく、自ら考えることなく、自分のやっていることを自分で決めていない、選んでいない。にもかかわらず結果に関しては、生徒が責任を負う。


●地域コミュニティでも同じ。地元住民ではなく、国や自治体、もしくはどこかの企業が代わって考え、決めてきた。しかし、彼らは責任をとらない。当事者である住民は、責任がとれないはずだが、結果は引き受けるしかない。


●私たちは、自分の生き方に関わることを誰かに委ねるべきではない。また誰かに代わって考えて決めてあげることもやめなければならない。人間は自ら考えて決めたことにしか責任はとれない。私たちに必要なのは、考える自由である。