「感動」を考える

今日は、東京都高文連の演奏会を聞きに上野の東京文化会館に行ってきました。
演奏を聴きながら、「感動」についてあれこれ考えが浮かびました。


先日、「感動のメカニズム」に関して、NHK「ろんぶーん」の内容のメモをアップしました。


それ以来、「感動」について自分なりに考えています。
今、吹奏楽部の顧問をしているので、その例だと、「感動のメカニズム」については、次のような感じになります。


①人物像+エピソード→高関与状態
自分が関わっている生徒たちの部活での様子を見ている。
様々なエピソードも積み重なる。
→高関与状態が実現している。


②ヒーロー願望の活性化
「この生徒たちにいい演奏をしてほしい」という感情が生じる。
→ヒーロー願望が活性化している。


③感情移入
何気ない一音も、その背景を感じて、心が動く。
→感情移入している。


④緊張
本番の演奏、「うまくいってほしい・・・」とドキドキする。
→緊急状態の成立


⑤緩和
「終わった・・・。力が出せてよかった・・・」とほっとする。
→緊張の緩和が成立。同時に、このときに「感動」が生じる。


実際に、年明けにあったアンサンブルコンテストでも、今日行った東京都高文連の演奏会でも、このような「感動」は多少なりとも感じました。
それは、僕にとってとても意味のあることだと思っています。


でも、そうではない感動が音楽にはあると思います。
知らない学校の生徒は「高関与状態」は成立していませんし、「ヒーロー願望の活性化」も「感情移入」も起こりません。
しかし、感動に心が震える瞬間があるのです。
もちろん、それは高校生の演奏だけでなく、プロの演奏会に行っても起こることです。


「感動学」で紹介されていた、「4種類の感動」は、喜び、悲しみ、尊敬、驚きでした。
でも、音楽で得られる「感動」は、なんだかそういう言葉だとしっくりきません。
そこで、「今までの音楽体験での感動」について考えてみたとき、一番しっくりくるのは「美しい」という言葉でした。
「真善美」という言葉も自然と思い出されました。


「感動学」の要素では、「緊張とその緩和」という要素はあるかもしれません。
過去に感動した演奏を思い出してみても、聞きながら「緊張感」が高まり、その解消で感動するということはよくあることです。
でも、必ずしもそれだけでもないような気もします。


ずっと緊張感が持続しているような演奏を聴きながら、まったくその緊張は緩和されていないのに、涙があふれてきてしまった音楽体験もあります。
それも、ただ「美しい」と感じたのだと自分では思います。


このあたりが「わかる」とか「考える」などという動詞ではなく、「感じる」という動詞でしか表現できないものであり、「感性」の重要性につながるものなのだろうと思います。


「わかる」や「考える」も大事ですが、「感じる」もとても大切なことですし、「感性」が豊かになると人生が豊かになるのだと思います。
ここで僕が書いているようなことは、古くから人間は考えつくしていることなのだと思いますが、浅学なので、自分にはこの程度の認識しか持てていません。
ですが、「感動」や「感性」、そして「幸福」というようなものについて、まずは自分の経験をメタ認知しながら深めていきたいところです。