文章の「タイトル」があることの意味

再び、NHKの「平成ネット史(仮)」からの話。
堀江貴文さんが、「TwitterやFacebookとブログやミクシィとの大きな違い」について語っていました。
それは、「TwitterやFacebookはタイトルを書かなくていい」ということ。
タイトルを作るのは結構大変なことで、自分が書く内容をあらかじめ自分が消化して短くまとめないといけないというようなことを発言されていました。


すごく納得感のある話でした。
このことを考える際に、自分のFacebookでのエピソードを共有させていただきます。


僕がFacebookで発信しているもので、「いいね!」が増えやすいものには大きく2つの特徴があると思っています。
1つは、すごくシンプルですが「短い」もの。
基本的に長文をだらだら書いてしまう傾向があるので(これもそうですが・・・)、そういうものよりは、短いものだと「読んでみよう」という気持ちになりやすいのだと思います。
そして、もう1つが「タイトルがあるもの」です。
長文のポストであっても、「タイトルで興味がそそられるもの」については「興味あるから、長いけど頑張って読んでみよう」という気持ちになりやすいのだと思います。
逆に、いくら「面白い(と書いた本人が勝手に思っている)」ものを書いたとしても、それが長文で、かつタイトルもないと、そもそも「読んでみよう」という気持ちが生じずに、タイムラインに流れる無数のポストの中に、読まれることなく埋没するだけになるのだと思います。
実際、僕がタイムラインで情報を拾いにいくときも、ほぼ同じような反応をしているなぁとも感じます。


ということで、極力、「タイトル」をつけようと思っていますが、これが実際にはなかなか難しいのです。
僕自身は、「中心となるメッセージ」が伝わることを重視しています。
ですから、それを自分の中で明確にし、かつそれを「どの言葉で表現するか」が頭の使いどころです。
「このポストで自分の発信したいことは、結局のところ何か?」ということをいったん整理する必要があるのです。
「長文だけど、是非読んでほしい!」というポストにほとんど「いいね!」がつかなったりするなど、必ずしもうまくいっているとは思いませんが、でも、「タイトルをつけようとすること」自体が、自分自身の成長につながっている感覚はあります。


最初の話に戻すと、Twitterはそもそも「140字までのつぶやき」というコンセプトなわけですから、タイトルの入る余地はありませんし、Facebookも字数制限こそないものの、基本的にはタイトル不要の、「メモのようなライトな書き込み」を意識した設計になっているのではないでしょうか。
それは、情報発信のハードルを下げ、「普及する」という点で大成功しています。
ただ、ここで書いたような「タイトルの意味」のようなものを考えると、「タイトル付きの文章を書く経験」の価値はもっと強調されてもいいような気がしました。


実際には、授業実践でも、「この文章にタイトルをつけてみよう」というダイレクトなものから、「書籍の帯を考えよう」というようなものまで、「コンテンツを端的に表現する練習」が取り入れられている例もたくさんあると思います。
その価値や意義を、「TwitterやFacebookとの違い」という文脈で語れると、説得力も上がる気がします。