技術オリエンテッドの危険性

NHKの「平成ネット史(仮)」、めちゃくちゃ面白かったです。
印象に残った話の一つを紹介します。


”iPhone以前に、日本でもパソコン機能の一部を搭載した携帯が登場していた。
「日本の携帯もいい線行っていたのではないか?」という意見に対し、堀江貴文さんは「日本はだいたい技術オリエンテッド。この延長では絶対にiPhoneは生まれない」と断言。


技術オリエンテッドとは、「今この技術を持って、こんなことができるけど、どう使おう?」というようなこと。
でも、ユーザーからすると、「は?」となってしまう。
ユーザー目線に立って、「こういうのが欲しいんだよなぁ」から発想して、「この技術もある、あの技術もある」となっていく。
これがiPhoneの発想。
だいたい探しに行けば技術はある。


日本は技術は持っていた。
でも、ライフスタイルがどうなっていくかのビジョンの部分がなかった。
すぐれた技術をどう商品に生かすか、ということが大事。”


この話、とても示唆深いです。
「こんな技術があります。さて、どう使おう?」という発想は、「手段の目的化」が起きやすいのだと思います。
ある技術は、あくまでの一つの「ツール」であり、「考え方」であり、「可能性」であるわけで、「それを必ず使う」という前提に立ってしまうと、アイデアが先細りする可能性が高く、「手段の目的化」にもつながってしまいます。


それに対して、「こういう世界を実現したい」ということを軸に「何か使える技術はないか?」と探しに行くのは、「目的」から出発しており、それがぶれないという点で、「技術オリエンテッド」がはらむ「手段の目的化」にはつながらないのだと思います。


この「日本の携帯とiPhoneの発想の違い」から、利根川進さんの話を思い出しました。
利根川進さんは、アイデアはものすごく思いつくらしいのですが、「そのアイデアが実現可能か」ということを考えるには、「何がどこまでわかっているのか」「最先端ではどんな技術が使えるようになっているのか」といったことを学ばない限りわからないはずです。
ところが、利根川さんは、自分がそれをすべてするのではなく、そういったことに詳しい知人に色々聞くことによって、「最先端のこの技術とこの技術を使えば、このアイデアで実験できて、こんなことまで解明できそう」というところにたどり着けてしまうのです。
それは、「こんな技術が登場してきたのだから、これを使ったらどんな研究ができそうか?」という技術オリエンテッドな発想とは一線を画すものだと思います。


また、このようなことは実は教育の現場でもよく起きていることだとも思いました。
つまり、教育現場にも「技術オリエンテッド」の発想があり、その危険性はあまり認識されていない、ということです。
「こんなに新しい教育方法が開発されている。それを使ったらどんな教育ができそう?」という発想ではなく、「こんな生徒を育てたい、そのためにこんな授業にしていきたい。どんな方法がありそうか?」という発想でいくと、「手段の目的化」が起こりにくいのではないかと思います。
「すぐれた技術をどう商品に生かすか」に対応させれば、「すぐれた手法をどのように資質能力の育成に生かすか」ということになります。


技術オリエンテッドという概念と、その危険性。
様々なことを考えるヒントがそこにありました。