”有意味”学習とは何か

先日、奈須正裕さんの『「資質・能力」と学びのメカニズム』から、「有意味学習」について以下の内容を紹介しました。
再掲します。


”自身が所有する知識との適切な関連付けにより、子供は意味を感じながら主体的・対話的に、そして着実に深い概念的理解へとたどり着くことができる。
心理学者のデイビット・オースベルは、このような学習を有意味学習と呼び、既有知識と一切関連付けることなく丸覚えしようとする学習を機械的学習と呼んで、両者を明確に区別した。
自分との関係において意味の発生しない機械的学習は、いかにも浅い学びであり、非主体的な学び。
また、そんな学びでは仲間と本気で対話する必然性も生じない。
つまり、「主体的・対話的で深い学び」の第一歩は、授業を有意味学習にすることであり、その鍵を握るのは子供が所有する既有知識との関連付けの有無なり深さの程度である。”(p156)


これに関して、ある方から「無意味学習はあるのか?」という問いが発せられました。
自分なりに考えたことを言語化しておきます。


「学習」は、すべて何らかの「意味」を持ちうるもので、普遍的な意味での「無意味学習」というものは存在しないのではないか(ポジティブなものだけでなく、ネガティブな体験も含めて)。


しかし、その「意味」を決めるのは、あくまでも「学習者」自身である。
機械的学習として批判されている「既有知識と一切関連付けることなく丸覚えしようとする」学習は、学習者自身がその学習に意味を見出だせていないということに他ならない。
あくまでも、「学習者中心」である。
ここを間違えると、例えば授業デザインにおいて大きな勘違いをする可能性がある。
つまり、教師が「この学習にはこんな意味がある」ということを整理し、それを強く発信し、その「意味」を生徒と(何としても)共有する、というのは方向性として違う気がする。


学習者自身が、自分のそれまでの知識や経験と授業内での学習内容を関連付けることができるのが重要。
教師が、「この学習はこんな知識・経験と関連付けられそう」というある程度のイメージをもって授業デザインすることは悪いことではないし、むしろ必要なことだろう。
しかし、授業展開がその通りにならなくても、まったく問題ではない。
むしろ、教師が想定もしなかったようなことに関連付けられるような「余白」が、授業デザインの際には重要になるだろう。


こう考えると、「どこでも、誰に対しても有意味学習として機能させることができる授業構成」というものは存在しないのではないか。
個々の学習者が積み重ねてきた知識や経験は個別性が高く、また、ある集団としても、その集団として積み重ねてきた経験や文化、暗黙のルールなどは、「学習の意味」を考える際に相当影響してくるはず。


教師は、それらを丁寧に見取り、適切な余白を含んだ形で、暫定的な授業デザインをし、それを日々の授業での見取りを経て改善し続ける、ということが重要である。
また、教師が一人で40人をいつでも完璧に見取ることは不可能なので、『学び合い』の考え方がここに合わさることで、それはより現実的なものになるだろう。
そうでなければ、いくら理想は高くとも、単なる「絵に描いた餅」になりかねない。