学習指導要領を読み解くことで見えること

奈須正裕(2017年)『「資質・能力」と学びのメカニズム』東洋館出版社

次期学習指導要領が何を目指すものなのか、中教審答申や指導要領本文を読むだけではうまく理解できない内容を、いくつかの鍵となる概念とともに解説をしている書籍。
鍋田先生に紹介していただき、「なかなかにスパイシーな語り口」に魅せられ購入。
自分の理解にうまく落とし込めていなかったことのいくつかについて理解を深めることができました。

以下、書籍から抜粋した個人的な学びのメモです。

●人はそもそもアクティブに、コンピテンス的に学ぶのであり、実はそのようにしか、ごく自然には学べない。(p53)

●「まずは訓練によって学習規律を確立し、落ち着いて学習できるようになってからでないと、アクティブ・ラーニングは難しいのではないか」などと言い出す人がいるのですが、そういった発想がそもそもの間違いであり元凶である。(p55)
※「できるからやる」のではなく、「どうすればできるようになるか」を考えつつ、「ますやってみる」ことが大事なのだと思います。

●意欲やその欠如状態としての無気力が、生得的でコントロール不能な感情状態でも、本人次第でいかようにもなる意思の作用でもなく、環境との相互作用の中で後天的に「学習」されるものであり、自分と自分を取り巻く環境に関する一種の認知がその中核をなしている(p72)
※「学習性無気力」は、本当にいつでも気を付けたいものだと思います。

●がんばりに応じて望む結果が得られたという経験や、他人との比較ではなく、以前の自分と比べて伸びた部分が評価される経験、成功に対してはそれをもたらした努力に焦点を当てて賞賛することなどが、成長的マインドセットを活性化する。(p78)
※「平均点」や「偏差値」という相対的な評価ではなく、「自分自身の成長」を絶対的なものとして測定できるような「評価」(相互評価、自己評価含む)を考えることの重要性だと思います。

●産業社会は「抑圧」と「安定」のセットからなる社会であり、知識基盤社会は「自由」と「不安」のセットからなる社会。(p101)
※この対比、すごくわかります。「不安を恐れるのではなく、不安を楽しめるようになる」ことは、「自由」を求める上で大切なマインドなのだと思いました。

●教科を学ぶとは単に知識の量が増えるだけでなく、知識の構造化のありようが、その教科の親学問が持つ固有な構造に近似していくよう組み変わり、洗練されていくこと。そしてその結果として、子供は世界をこれまでとは全く違った風に眺め、関わったり取り扱ったりすることができるようになる。(p124)
※最近、何度も何度も目にする話です。相当に普遍性のある概念なのだとあらためて思いました。

●子供の事実とは異なる「学び」概念に基づいて組み立てられた教育方法など、奏功するはずがない。ところが、奏功しない理由を私たちはしばしば子供の側に求め、「落ち着いて勉強に取り組む姿勢ができていない」「話を聞く力が弱い」「理解力に問題がある」などと言っては、いよいよ規律訓練やドリル、宿題の乱発に終始してきた。(p150)

●自身が所有する知識との適切な関連付けにより、子供は意味を感じながら主体的・対話的に、そして着実に深い概念的理解へとたどり着くことができる。心理学者のデイビット・オースベルは、このような学習を有意味学習と呼び、既有知識と一切関連付けることなく丸覚えしようとする学習を機械的学習と呼んで、両者を明確に区別した。自分との関係において意味の発生しない機械的学習は、いかにも浅い学びであり、非主体的な学び。また、そんな学びでは仲間と本気で対話する必然性も生じない。つまり、「主体的・対話的で深い学び」の第一歩は、授業を有意味学習にすることであり、その鍵を握るのは子供が所有する既有知識との関連付けの有無なり深さの程度である。(p156)
※「有意味学習」の考え方の重要性を思い知りました。今でも自分なりに取り組んでいますが、「隅から隅まで」という意識で、再度実践を深めたいと思いました。

●具体的な文脈や状況を豊かに含みこんだ本物の社会的実践への参画として学びをデザインしてやれば、学び取られた知識も本物となり、現実の問題解決に生きて働くのではないか。これがオーセンティックな学習の基本的な考え方。(p167)
※「オーセンティックな学習」も、「有意味学習」とともに、今一度自分の実践を深めるための視点としたいです。

●複雑で混濁した状況で学んだ知識であってこそ、複雑で混濁した現実場面の問題解決の活用に耐えることができます。(p170)
※「わかりやすさの罠」がここにあると思います。

●いかに科学的な原理に則った実験や観察であっても、単に数多く経験しただけでは、科学的な「見方・考え方」や方法論を身に付け自在に繰り出せるようになるには、なお不十分。さらに、表面的には大いに異なる複数の学習経験を俯瞰的に眺め、そこに共通性と独自性を見出し、ついには統合的な概念的理解に到達する必要がある。(p185)
※「演繹」だけではなく、このような「帰納」思考を意識することがすごく重要で、授業デザインとしては、そのような「機会」をつくることが必要なのだと思います。

●今こそ教科内容研究が決定的に重要。それは、個々の教材やその取り扱い方を検討する教材研究より一段奥にある、教科内容そのものの研究。その教科ならではの「見方・考え方」を学力論の基底に据える以上、この作業はもはや不可欠。(p187)
※このくだりを読み、いよいよ「教科・科目の幹となる内容」について対話する勉強会の必要性を感じました。

最後に、苫野一徳さんのポストにもありましたが、この書籍にも以下のような言及があります。

"アクティブ・ラーニングが話題になって以降、自身が信奉する特定の方式や型や道具立てを喧伝し、あるいは対立する立場を排斥するのにこの言葉を都合よく用いる動きが横行しました。そのような党派的な動きが、教育方法の質的向上において百害あって一利なしであることは、学校教育をめぐる長い歴史からも明らかです。"(p148)

「特定の型」に拘泥するのではなく、自分自身が「求道者」であれば、溢れる情報の中から「今の自分に必要な情報」をクリティカルに選びとり、そこから自身の実践の改善を図り、「守破離」を何度も繰り返しながら、徐々に「自分(だけ)の実践」というものが形作られてくるのだと思います。
この書籍も、「型」を教えるのではなく、「考え方のヒント」をくれるものです。