「安心」に依存しすぎると「信頼」できなくなる

「コミュ障」の本質が、ようやくわかった。


「相手が自分を裏切らない」ための根拠を「人間性」に求めるのが「信頼」、「しくみ」に求めるが「安心」。
「安心」に依存しすぎると「信頼」できなくなる。


学校教育においては、しくみに依存する「安心」の要素も必要だと思いますが、一方でしくみに依存しない「信頼」の成功経験を積むということも必要なのだと思います。
このあたりの認識をもった上で「しくみ」をデザインする必要があります。
また、教師が生徒に接するとき、セーフティーネットとしての「安心マインド」は必要だと思いますが、「信頼マインド」は常に持っておきたいものだとも思いました。


"「コミュ障」の本質とは、一体何なのだろう。
そう思っていたところ、先日読んだ一冊の本が、これらの疑問についてほぼ完全に答えてくれた。
その本が、北大の名誉教授だった、社会心理学者の山岸俊男氏の「安心社会から信頼社会へ」という本だ。
この本によれば、私がイメージしていた「コミュ障」とは、つまり
「人を信頼するのが下手な人」
ということに尽きる。"


"山岸氏は、信頼の定義を、次のようにしている。
「信頼」は、相手が裏切るかどうかわからない状況の中で、相手の人間性のゆえに、相手が自分を裏切らないだろうと考えることだ。
そして面白いことに、山岸氏は「信頼」と対になる概念として「安心」を掲げている。
安心の定義は次のようなものだ。
「安心」は、相手が裏切るかどうかわからない状況の中で、相手の損得勘定のゆえに、相手が自分を裏切らないだろうと考えることだ。
信頼は不確実性を大きく残したまま、人に期待を持たなければならない。
だが、安心は、システムやルール、約束事などによって、「相手が裏切る」という不確実性を大きく減らしている。"


"そして、山岸氏は重要な示唆をする。
それは
「安心」に依存していると、「信頼」する能力が育たなくなる
という事実だ。"

"彼らは「人間同士の信頼関係」よりも、「安心を作り出す仕組み」の方に依存しているため、「この人はどの程度信頼できるのか」という感覚が鈍ってしまっており、それゆえに「コミュ障」なのだ。"