「疑う」ことの価値に気が付くということ

先日、遺伝子検査に関するディスカッションの授業を行いました。
自分で情報を検索してその信頼性を判断し、集めた情報を基に議論し、自分の意見を構築する練習を行いました。
その授業の振り返りシートにこんな記述がありました。


●信頼できる情報の見つけ方。特に遺伝子検査に関しては情報が違いすぎる。自分でたくさん見て比べるしかないのかな・・・。


これに対してこんなコメントを返しました。


★「トレーニング」だと思います。まずは、「鵜呑みにしない」こと、それから、「他の見方や考え方があるのではないか」と情報を検索してみること、信頼できる人に聞いてみること。そうしたことを積み重ねていくと、だんだんできるようになると思います。


「鵜呑みにせずに疑うこと」がすべての基本だと思います。
クリティカルシンキングの基本も「批判」ではなく「疑う姿勢」だと思っています。
ただ、それが高校生には果てしなく難しいようです。
以前も、こんなことを書いた生徒がいました。


●自分は今まで先生と教科書を信じてきたから何を信じればいいか分からなくなった。


なぜこんなことになっているのでしょうか。
考えうる要因を挙げてみます。
・「疑う余地のない確かなもの」だけで構築された「教科学習」をしてきてしまっている(ことに自分では気づいていない)。
・「疑う」ということが道徳的でない行為だと感じられたりして避けてきている。
・「疑う」ことを面倒くさがって、効率の良い勉強には不必要だと思っている。
・「疑う」ことをすると、教員からも同級生からも「出る杭」認定されてしまうので避けてきている。
・「疑う」ことの重要性について聞いたことがない。


実は、僕自身もそういうマインドでした。
大学に入ってから「クリティカルシンキング」というものに触れ、それまでの人生がひっくり返りそうになったことがあります。


「疑うことの大事さも、これまでの自分の学び方の危うさもわかったけど、だからといって何を信じてどう生きていけばいいのだろう・・・」


そんな目の前に果てしなく広がる世界に呆然とした記憶があります。
その時は、「ワクワク」ではなく「不安」がすごく強かったと思います。
ですが、そこがすべてのスタートだと思います。
高校生であれば、できる限り早い段階で「疑う」ことの価値を知り、そこで「情報の意味」がひっくりかえる衝撃を味わい、その上で学び方をアップデートできるとよいと思います。
だから、そんな経験ができるような仕掛けを授業の中にも取り入れています。


今は、「思考の自由」を感じます。
「何が正解かわからない」世界を、「恐ろしいもの」と感じるのではなく、その中で自分なりの納得解を見つけて突き進んでいこうとワクワクできるようになりました。
この感覚をもてると、人生楽しくなります。
そんな感覚をもっとしっかり伝えたいなぁと思っています。