知識と思考パターンは両輪

先日、ある方が、「レディネスがないから絵画をしっかり鑑賞できず、わからなかった」という旨のことを書かれていました。


この場合の「わかる」とはどういう質のものでしょうか。
あるいは、芸術は「わかる」ことにどのくらいの価値があるのでしょうか?
先日のサイエンスとアートの話が引っかかっています。


この方は、こんなことも書かれていました。


"「何を思えばいいのかわからない」と感じた。
「何もわからない」=「何も感じない」ということ。
本当に疑問すら浮かばなかった。
せめて歴史を知っていれば、「あの戦争の最中にこれを描いたのか…」などという感慨は抱いたかもしれない。"


僕は、ここでいう「レディネス」は「知識」ではなく「思考のパターン」の問題だと感じました(もちろん、知識の要素もないわけではありませんが)。
出口先生は、ものを考えるには「知識と思考のパターンが必要」とおっしゃっていました。
それが頭をちらつきます。


だとすると、「わかる」というよりは「自分なりの解釈をしてみる」という感じでいいと思います。
逆に、このとき、「わかると思うために何が必要だったのか」を思考することで、「知識」と「思考のパターン」の両者に関してのレディネスが浮き彫りになるのだと思います。


僕の「絵画鑑賞のためのレディネス」は、このイメージです。

 

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ここに、「知識」が加わると、より深い鑑賞が可能になると思います。
僕は、この話を筑波で三森さんから聞いて以来、「言語技術」は大事だと思っています。
以前、ホームルームで「枯木鳴鵙図」を使って「鑑賞」の練習をしたことがありますが、生徒は何の知識も持っていないにものすごく深い解釈ができていました。
石川一郎先生が紹介されているキングズクロス駅の問題も同じ意図だと思います(もちろん、思考パターン"だけ"ではなく、それを前提として何を思考できるかが問われていることは言うまでもありません)。

 

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「思考のパターン」を手にして、まるでパズルを解くかのように絵画を読み解く、というのは、芸術の本質ではないかもしれませんが、でも、ある絵画を前にした時に、それを「楽しむ」方法が広がることは間違いないと思います。


人生を楽しむのに、人生をより面白くするのに、どんな「知識」と「思考のパターン」が必要か。
個人的にはまだまだモヤモヤしていますが、その両者が大事であることは間違いありません。