寂しさとの付き合い方

「壁と山」のポストに対して、福島先生からこんなコメントをいただきました。


"教員になったばかりの頃、先輩の女性の先生から
「こーちゃん、学校の先生ってね、所詮、生徒の人生って列車の車窓の風景なのよ。風景は列車に乗り込んでこないでしょ、見たくない風景もあるし(笑) でもね、心に残る風景もあれば、もう一度見に行きたいって思う風景もあると思うのよね。それは生徒次第だけどね。」
ってなことを言ってもらったことがあります。蓋し明言かと。"


僕も、以前こんなことを書いたことがあります。

「クラス担任」について思うこと


"教員として、うまくいくことばかりではない。
ときに、うまくかなかったり、嫌われることもある。
でも、そのときは、生徒にとって必要な「壁」になれればいい。
5年後、10年後、20年後に、自分の伝えたことが生徒の中で生きていれば、それは素晴らしいこと。
でも、そうでなかったとしても、その瞬間瞬間に彼らと本気で向き合い、伝えたことは、人生のほんの小さなステップにはなっているはず。
そうして踏まれて、その分少しだけ彼らが成長して、そして忘れられれば、それでいい。"


今まで見てきた景色を一つ一つ全て覚えているわけではありません。
それが、すごくステキな景色であったとしても、です。
でも、その時の自分にとっては、ある景色を見ることができたことの意味があったはずです。
そして、「もう一度見に行きたい」と思える景色もあります。


僕は、「もう一度会いたい人」にならなくてもいいと思っていますが、「その瞬間には何かの意味のある景色あるいは踏み台」にはなりたいと思っています。
そうして、忘れられれば、それでいい、とも思います。
寂しい気もしますが、この言語化は今の自分にとってもそれなりに腑に落ちます。


この寂しさとうまく付き合えないと、「自分にスポットライトがあたる」教師になりかねません。
担任を持たずに4年目に入った今、昨年まで感じていた「寂しさ」が少し和らいでいます。
それは、僕が「寂しさとの付き合い方」を少し覚えたからかもしれません。
そしてそれは、今の自分にとってとても大事なことのように思えます。
今、自分の教師としての「在り方」が問われているような気がします。


「景色」の話で、色々なことを思い出せました。
ありがたいことです。