段差が語るもの

南医療生協見学ツアー メモ②

認知症の高齢者が生活する「グループホームなも」を見学したときのことです。
この施設は、地域の空き家を懸命に探し、そこで見つけた古民家をリフォームしてできました。
できる限り元の状態を生かそうという発想がありつつも、「バリアフリー」にはなっていないことから、暮らしやすいような工夫もリフォームの時に入れたそうです。
そのリフォームを経ても残っている「段差」があります。
この段差は、利用者の方の居室から食堂やリビングに出る時に必ず通らなければなりません。

よく見学に来る方から「これじゃあバリアフリーになっていないのでは?」と指摘を受けることがあるそうです。
しかし、この段差はわざと残してあるのです。

段差もなく完全なるバリアフリーにしてしまうと、利用者の方はだんだんとすり足になってしまい、足を上げることができなくなり、それこそ小さな段差も越えられなくなってしまうそうです。
しかし、日常的に段差を超えることで、その動きができる状態を維持できるそうです。
外にも砂利が敷いたままで、すり足ではうまく歩けなくなっているということでした。

この施設は、玄関にも鍵はかけないそうです。
そうすると、「夜中の徘徊」の心配もあります。
しかし、先ほどの段差のように、利用者の方は日中しっかりと動いているので、夜はしっかりと睡眠され、起き出して来ることはないのだそうです。

真の「バリアフリー」とは何でしょうか。
利用者の方のための工夫が、逆に「生きる力」を削いでしまっていることもあるのだと気づかされました。
「利用者本位」の意味を捉え間違えると、思わぬ結果につながります。
小さな段差を、単なる邪魔な障害物と思うか、大切なものと思うか、それは理念によって変わるのだと思います。
この施設は、「できることは自分でやる」という方針を徹底していて、どうやったら「できることを増やせるだろう」という発想で接しているそうです。
だから、段差もあるし、電話にも出てもらったり、かけてもらったりすることもあるそうです。

そして、そのような発想に至った原点は、施設を作るにあたり見学に行った施設で、「ホテルのように綺麗で整ったところ」は、利用者さんの顔が暗かったということを見たからということでした。

これら一連の話は、教育の世界でも全く同じことが言えると思います。
「段差」を必要以上に取り除き、逆に力を入れて削いでしまっているのではないか。
「ホテルのように綺麗で整ったところ」を作って、暗い顔をした生徒を生み出しているのではないか。

たった一つの小さな段差と、そこに込められた想いを知り、多くを考えさせらました。