脳死に関する授業と最終授業の見学メモ

1年生の生物基礎の授業を見学いただいた方から、見学メモをいただきました。
許可をいただき、一部転載いたします。

【見学した授業】
●ディスカッション「脳死・臓器移植を考える~脳死者からの臓器移植は人を幸せにするか?」
●最終授業(講義)

【省察】
●安心感
何をさせられるのだろう?何が起こってしまうのだろう?といった感覚がなかった。
いろいろな教室にお邪魔させていただくとそわそわして、居たくなくなる時がある、感情がアップダウンする。なんだか、わたしが生徒でここの教室にいてもなんだか大丈夫な気がした。なぜだろう?
1つの尺度だけで、評価されない感じ??わたしでも大丈夫やってみようという感じ?自由な感じ?なんだろう?
他の見学者の表情を見ていると、みんな考えさせられている顔をしていたけれど何を考えていたんだろう?聞いてみたいなぁ。

●先生の介入
スマホ、図書室オッケー。プリントを基に10分おきくらいに大野先生の介入あり。何を考えたらよいのかが明確。道筋が経っている。目的と手段と価値観がつながっている感覚がある。

●先生自身が考えている
めちゃくちゃ先生自身が考え、学び、責任をもって投げているものだということが伝わってきた。『学び合い』の意味、大野さん自身が言葉にできているかんじがした。

●これは生物の授業なのかな?
生き方や考え方、生物の授業といった感覚がしなかった。知識を身に付ける授業ではないことはよくわかった。
→形成的評価、総括的評価、診断的評価の話。コンピテンシーの話。

●教壇に立っている人の役割は?
授業者の意味を考えた。ファシリテーター?教員?教師?教諭?先生?せんせい?師?自分はどう在りたいか、どう在れるのか?わたしでもできることはなんだ?いろいろぐるぐる考えていたけれど、大野さんの姿を見て、「あ、なんか次の時代の先生っぽい」と感じた。
全て真似できるわけではないけれど、この感覚はなんだろう?言葉にできない。とにかくさらに次の時代の先生っぽいといったかんじ。ワクワクした。

●やっぱり委ねられている
大野さんが「1つ批判して帰ってください」とおっしゃった。
教師の価値観に委ねられていることの危うさを感じていらっしゃるのだろうか、批判できる、議論できる相手のみの参観を求めていますよというメッセージなのか。いろいろと考えた。単純にすごいなぁと感じた。批判なんてできず、「もっとわたしも大野さんのように楽しんで、とらわれずもっと自由に、もっと学びたいなぁ、楽しみたいなぁ」という気持ちになった。不思議。
わくわくするのは、大野さんオリジナルが溢れているからなのかな?

●ぶれない
大野さんの立ち振る舞いにぶれない感じを感じ取った。不安感が無い。自分の信念と生徒の成果や反応という根拠に基づいてふるまっていますという感情のぶれなささのようなものを感じ取った。

●どうしてこの実践なのか
大野さんの経歴が気になり聞いてみた。
「前任校での体験が大きいと。学力にばらつきがある、考えすぎて不登校になってしまっている子たちが多い感覚があった。考えるから深い子が多いなと感じたんですよ」とおっしゃっていた。→教師ってくじ引きみたいに、環境がきまるなぁ。そこで何に気づき何を学びと捉え、どう行動していくか。わたしはどうなるのかな。楽しみ。

●授業の目的
授業を見ている途中で、明日も来たいと直感的に思い、「明日は講義ばかりですよー」と言われたが、お邪魔させていただいた。初回のスライドを見ながら、PDCAサイクルが回っていたか生徒自身に確認させる。授業の意味、目的はこれだったのだ、だからこの方法をとったのだということも明確に示されていた。
→中原淳の目的の原理の通りだなぁ。生物の授業を通して、学校の意味まで考えさせる先生初めてみたなぁ。すごいなぁ。
→わたしも授業の意味を伝える時間作ってみたい。

●教師の価値観、信念
教師の価値観や信念を感じ、ポジティブな問いを持てた2日間だった。教師の役割は?授業を児童生徒と一緒につくるとは?生身の人間同士で学ぶ意味は?学校の意味は?