「疑う練習」の授業

「クリティカルシンキング」の練習として、脳死・臓器移植をテーマにしたディスカッションを行いました。
この3年間の授業実践と、今年度生徒アンケートに新たに加えた項目の分析から、「情報を鵜呑みにせずに疑う」ことが極端に苦手で、かつトレーニングの機会もほとんどないことがわかりました。
そのような背景で、こんな授業を実施してみました。
一番強調したのは「全てを疑え」ということです。
知識・理解を得ることではなく、あくまでも「疑う練習」であることを強調しました。
生徒は、様々な情報に揺さぶられ、苦しみながらも「クリティカルシンキング」に自分なりに挑戦していたようです。
以下、授業プリントの内容と生徒の振り返りからの抜粋です。

生物基礎「体内環境」に関するディスカッション(50分)

●テーマ
脳死・臓器移植を考える~脳死者からの臓器移植は人を幸せにするか?

●目的
・脳死者からの臓器移植のメリットとデメリットについて説明することができる。
・様々な情報にアクセスし(自分の目で見る)、情報自体の信頼性・妥当性を検討し、何が見えていて何が見えていないかを判断することができる(自分の頭で考える)。
・「答えのない問い」に対して、根拠に基づき、自分の納得解を得ることができる。

●課題
課題1 脳死とは何か?
課題2 なぜ「脳死」と「臓器移植」が関係するのか?(脳死以外の死との違いは?)
課題3 脳死臓器移植の推進派と反対派の意見を整理せよ。
※「必要性」と「有用性」を確認するとよい。
※「必要性」に関しては、「脳死からの臓器移植を待つ患者がどのくらいいるか」を知らなければならない。
※「有用性」に関しては、「脳死からの臓器移植で実際にどのくらいの効果が出ているのか」を知らなければならない。
※「脳死判定基準」そのものが妥当なものかどうかも判断すべき。
※情報の信頼性や妥当性を判断すること(誰が、何の目的で発信しているか?)
※不足すると思われる情報を自分で判断して情報をとってくること。
課題4 以上をふまえて、自分は脳死・臓器移植に関してどのように考えるか?(提出用プリントに記入)

 

生徒の振り返りからの抜粋

●インターネットや教科書などで脳死について調べていると、先生がおっしゃった通り、その筆者がどちらの立場なのか書いていることを見ると本当にわかるんだなと思いました。どの文章も、筆者が何らかの意図を持って書いているため、まずはその筆者がどちらの立場かを確認した後、自分の立場もしっかり確認した上で、流されないように気をつけながら読んでいく必要があると思いました。

●「脳死」という言葉ができてその教育を受けてきているこの今の時代には普通の概念になってしまっているが、教育は考えを意図した方に操作できるということを実感した。もっと疑問を持っていろいろな物事を見なければいけないなと思った。

●脳死は人の死と教育する→一見平等そうなドナーカードを書かせる(教育しているからこの時本人は提供すると書きやすい) →実際にそうなる→医師「提供したいと言っています」家族「反対だけど本人が言うなら仕方ない」→臓器ゲット、これに対して教育やべえと思う。

●クリティカルシンキングをすると、ことごとく考えが批判的な方に向いてしまうのであるが、実際脳死の場合に臓器移植をしたくない立場の意見を知らなかったので知れたのがとてもよかった。

●「脳死」にかかわらず、様々なところに目を向けて疑問を持ち続ける大切さを改めてした。また、自分が持っている知識がどの立場で言われているのかということを常に意識することも大切だと思った。加えて、人の意見を聞いて自分の意見を柔軟に変えていくことをもっとできたらなと思った。

●クリティカルシンキングに挑戦してみたけど、正直全く精度が高いものではなく、いろいろなサイトを見たけど結局は「日本臓器移植ネットワーク」のサイトに頼ってしまった部分がほとんどだった。でもこのサイトに書かれている全ての情報を信じるのではなく、一部の情報をしっかりと疑うことができたのでよかった。

●私が授業前に肯定的な意見を持っていた1つの理由に今まで肯定的な意見にばかり触れていたと言うことに気づきました。今までは何も疑わず良いことだと思い込んでいました。疑う事は必ずしも良いこととは言われないと思いますが、すごい大事だなとやっとわかった気がしました。

●生物でディスカッションを行うために、普段自分が見聞きしているのが正しいわけじゃないんだなぁと気づかされます。どうしても自分であまり知識がない分野に関してはそれについての専門家などの意見(主張)に頼ってしまいがちになっていました。けれど、この1年間の生物を通して、私たちが手にする情報が正確か、または不正確なのか、ということを考えていかなければ自分の身とか危ないなって感じました。

●放射線の話でもあったが、情報そのものが正しくても書き方によって感じ方が変わってしまうので、1人の人が書いた文章ばかり読まずに同じ事について書いてある文章を複数読んで理解をした方が良いなと思った。

●臓器移植は脳死者からの「好意」として取ることもできるが、まだ生きれたかもしれない命を断ったものとしても解釈することができ、同じ事でも表現の仕方の違いによって与えるイメージが大きく違うことをした。そして、このような表現の違いに私たちは騙されていたり見えるものが見えなくなったりしているのだと言うことを今回のテーマや日経新聞の方の言葉から実感した。様々な解釈の中から揺るがない事実を見つけ出し、それを正しく判断することが必要だと感じた。

●最初は「すべてのことを疑え」と言われて、一体何を信じればいいか不安に思ったが、基礎知識を学ぶことで、何が正しくて何が正しくないかの判断に役立ち、自分が最も納得できるものを選択しやすくなるのだと気付けた。

●お客さんにも言われたが、「全てを疑う」ことがやはり1番大切なのかと思った。大野先生が提示してくださる情報も正しいとは限らないなと思った(もちろんお客さんのお話も…)。自分なりに「考えの軸」を持つ事は私も大切だと思う。けどその軸となる「根拠」が正しいとも限らない。結局それは「信じる」(=信条)ということにつながるのかと考えた。

●何か「考えの軸」を持つためには知識が必要だ。しかも「正しい知識に近い知識」である(正しい知識などないのではないかと思うからだ)。ということを感じられた授業で濃密な時間を過ごせた。

●与えられた情報を鵜呑みにしてしまいがちな私にとって視点が180度変わるような内容でありとても新鮮だった。また、これまでの私の態度を反省した。見学に来ていた記者の方の話にも衝撃を受け、発信する側の事実の捉え方によって受け取る側の反応は大きく変わってしまうのだと実感した。これからは1つの情報に対して様々な意見に触れ、自分で考えて判断していきたいと強く思った。

●情報収集する際に気づいたことで、情報発信者がはっきりと推進派である、反対派である、と言うのは意外とわからないものだった。一見中立の情報でも実は推進派のデータだけを切り取って載せているなども考えられるので注意していこうと感じた。

●今回の授業で、多少教科書を疑ったりはしていたものの、それでも教科書の内容の上でしかものを考えていなかったのだと気づきました。やはり気になったらしっかりと情報集め、より多角的に見ようとしなければならないと思います。

●今回の授業通してとても大切なことを学べました。正直なところ、今までのどの授業よりも大切なことを学べた気がします。このような授業はもっとやって欲しかったです。

●反対派は、1つの例を大きく取り上げて可能性はゼロでは無いことを強調している。賛成派は、1つの例を例外にしたり、なかったことにしたりしている。

●先生がずっと疑うことについて言っていたが、疑った後どう考えれば良いか分からなくて結局深い考察には至らなかった。

●現代社会の授業でいちど取り扱ったけれど、その時は教科書を疑うこともなく「そうか」と知識にしていたことに気付いた。

●脳死という基準が作られたって言う事実は、医療の進歩があってたと思う。少し前の時代では、もしも臓器移植もなかった。つまり両方死んでいたが、今はどちらか片方を助けることができる。多分、全ての人が満足するような方法は存在しないと思う。だからこそできる範囲での最大限の妥協というか1番良い方法を私たちが探しているのだと感じた。

●「〜と見込まれる」や「〜とされる」など曖昧な表現に疑いを持つべきだと思った。また、「脳死からの回復はありえない」というのは「脳死と判定されてからの回復はありえない」というのとは違うというのが気づきとしてあった。言葉は巧みに操る人がいるので、本質を見極めることが必要だと思った。

●こういう授業は考える良い機会になるけれど、しんどいのでたまにやるのがちょうど良いですね。

●「何の目的で」の必要性を本当に実感しました。まあ当たり前ですよね、みんな自分の意見言いたいんですもんね。

●私の中で臓器提供は良いものだと言うイメージがあったけど、自分や家族が提供者の立場になったと考えたときにイメージが全く変わったので、今まで自分に関係のないものだと言う前提で考えていたことに気づいた。

●脳死について、自分が脳死になる可能性、家族が脳死になる可能性、脳死から生還する可能性といったたくさんの可能性に振り回された。受け取り方で感じがガラッと変わってしまう都合の良さが怖いなと思った。

●医学が発展する事は良いことだとずっと思っていて疑う事はなかったけど、今回の実習を通じて考えが変わった。人間が自然の流れとして自分の死を受け止めていた時代より、人間の自己中心性が現れている。でも正直私も今は他人事だからこんなこと言えるのだと自覚している。

●脳死が、医療側、患者側、家族側、臓器移植を待つ人の側のどこからも決まりきっていない印象受けた。医療側と臓器移植を待つ人側からすれば単調な作業を黙々と続け、もし適合するものが見つかったら嬉しいのかもしれない。しかし、患者側、家族側からすれば、その単調作業に違和感、嫌悪感を覚えるだろうと自分が当事者であることを再認識した。

●今回の授業では、もっと知っていると思っていた脳死や臓器移植についての知識や情報が全然自分の中になかったことにとても驚きました。また、情報疑い始めたら、自分が全然物事を疑わない&どれを信じれば良いか迷宮入りしちゃうタイプでびっくりしました。