学習の目的とは

ここ数日で、二冊の書籍からの学びを噛み締めています。

大学における「学びの場」づくり
よりよいティーチングのための7つの原理

「学びの責任」は誰にあるのか 「責任の移行モデル」で授業が変わる

教科教育で目指す「学び」とか「学習」について、様々な知見を得ることができます。
しかし、ここで述べられている「学び」とか「学習」だけを僕自身が目指しているわけではないということもまた、確認できました。

思い出されたのは、昨年聞いた、ユネスコ(UNESCO)が設置した21世紀教育国際委員会が1996年に提出した「学習:秘められた宝」(Learning:The Treasure within)という報告書。

そこに書かれている「学習の4本柱」は以下の通りです。
(1)Learning to know
(2)Learning to do
(3)Learning to live together, Learning to live with others
(4)Learning to be

1996年に、こんな報告書で出ていて、最終的に「Learning to be」が出てくること。
衝撃を受けました。
教科教育での、「知識」や「スキル」の部分は(1)や(2)で表現されているのだと思います。
先に紹介した2冊の書籍は、どちらかというと、このような側面にフォーカスして、教科教育のコンテンツの学びをどう改善するかに意識があるように感じています。
社会的スキルのようなものは(3)で表現されているのだと思います。
それも一部先の書籍には要素がありますが、そこが中心命題ではありません。

それに対して、(3)や(4)が中心になってくる教育論があります。
『学び合い』は、「生き抜く」ことと「一生涯の幸せ」にフォーカスしており、そのために「仲間を得ることの重要性」を述べています。
苫野先生の「自由の相互承認」も、「誰もが生きやすい社会」につながるもので、学校という場の機能を、「教科教育におけるコンテンツの学び」にとどまらないものにしています。
これらは、「教科教育でのコンテンツをよりよく学ぶ」ということに収まり切らない、人生においてのより本質的かつ基本的な部分を提示しているように思えます。

「より良い学び」や「より良い学習」というときに、そこにはユネスコの4つがあるはずです。
僕は、「Learning to live together, Learning to live with others」や「Learning to be」を大切にしたいし、それらが方向性として感じられない教育論には多少なりとも違和感を感じます。
ただし、自分が「Learning to know」や「Learning to do」をいかに改善していくかを考えるときに、学ぶべきことは山のようにあります。
だいたい、TOKの何たるかもきちんとものにできていないのに、「知るとはどういうことか」「知識とは何か」も怪しい中で、「Learning to know」をしっかりと機能させることなどできないと思います(反省)。

ということで、様々な教育書で、それぞれ様々な学びが得られますが、その書で語られている「学び」とは、ユネスコの4つのうちどのあたりのことを指しているのかを確認しながら、自分の教育理念と照らし合わせ、掴むべきものをつかみ、捨てるべきものを捨てることが大切なのだと思いました。
「学ぶとは何か」「学ぶことの目的とは何か」というエッセンシャルクエスチョンを常に意識しつつ、ある世界にダイブしてそれを絶対視することなく、自分の理念に基づいて相対化することが重要だと思います。

その前提の基であれば、様々な書籍をクリティカルに読み、自分自身の成長の材料を確実に得ることができるはずです。
このタイミングで言語化しておきたかったので、ひとまず書きました。