初心で問い続ける

「禅マインド ビギナーズ・マインド」という本には、冒頭にこんな記述があります。

"初心者の心とは、空であり、専門家の持っている「くせ」がなく、すべての可能性に対して、それを受け入れ、疑い、開かれている、準備のある心です。
それは、ものごとをありのままに見ることのできる心であり、一歩一歩、あるいは一瞬の閃きのうちに、ものごとすべての本来の姿を悟ることのできる心です。"

この記事にも、こんなことが書かれています。

"テレビ番組を作るうえで最も恐ろしいのは、思い込みや先入観、偏見を自分でも気づかないうちに持ってしまうことです。それらが作り手の側にあると、物事の背後にある本質を見逃したり、本来は抱いてしかるべき素朴な疑問を素通りしてしまったりするからです。"

"知識や情報というものは、増えれば増えるほどディテールが気になっていくものです。でも、番組において私が目指していたのは、一つの問題の本質の部分を、いかに柔軟に、俯瞰して提示できるかでした。物事の本質を見失わないようにするためにも、初めに抱いた疑問を重視する姿勢が大切だったのです。"

"番組でのゲストとのやり取りを通して私が学んでいったのは、ときに素通りしそうになる「当たり前」に対して、「本当にそうだろうか」と常に問う姿勢の大切さだったように思います。物事に対して常に問いを持つ姿勢こそが、思い込みや先入観から自分を自由にしてくれる唯一の方法なのだ、と。"

知識は、人を自由にするかもしれないけれど、同時に人から自由を奪うものかもしれません。
何かを知ったとき、「何が見えるようになったのか」を認識することと同じかそれ以上に、「何が見えなくなったのか」を認識することが大切なのです。

「知識の罠」にハマらないためには何が必要でしょうか。
それは、まっさらな気持ちで「問う」ことです。
記事にはこうあります。

"答えや知識がなくてもいい。何かおかしいと感じたとき、ふに落ちない気持ちを抱いたとき、議論の場で適切な問いを発する感性。それが「いま」という時代の教養なのではないか、とさえ私は感じています。"

"テレビ番組の作り手は明快であることを善しとして、物事をわかりやすく見せようとしがちです。しかし一方で、私は「わからないものを、わからないままに提示すること」「難しさを難しさのままに見せること」が、番組を作るうえで非常に大切だと考えてきました。すっきりとしないものが胸に残るからこそ、もっとこの問題について考えてみよう、と人は思うようになるはずだからです。
立ち止まって考える時間が与えられると、私たちは物事にゆっくりと向き合い、そのことが「問い」を生じさせます。そうして生じた「問い」について、自分なりに考えてみようとするとき、人はすでに学ぶことの入り口に立っているのです。"

僕たちは、知ることはよいことだと無批判に思っているかもしれません。
勉強とは、知識を増やすことだと思っているかもしれません。

でも、本当に人が学ぶためには、「初心」をいつまでも持ち続けること、そして、恐れずに問い続けることが必要なのだと思います。

知っていることで驕らない。
知らないことで卑屈にならない。
知っていることにこそ危うさを覚える。
知らないことにこそ可能性を見る。

多分、初心者は皆そうだったのです。
それを、いつの間にか忘れてしまうだけなのです。

大切なときに、大切なことを再認識できました。