出る杭は和して同ぜず

近未来ハイスクールのコンセプトで「出る杭を育てる」というコピーがありました。
すごくいいなぁと思います。
ちょっと出たら、それをもっと伸ばして、もっともっと出てしまえばよいと思います。

でも、どうしても「出る杭は打たれる」文化はあります。
「出る杭を育てないと」と言いながら、実際には「出る杭」を見つけると打ってしまう人もいます。
それは言行不一致です。

僕は色々な場面で「出る杭」であったと思いますし、色々な「議論」もしてきました。
そうして、色々と経験し、痛い思いもしながら学んできました。

ある人は「もっと出ちゃえばいい。出すぎた杭は打てないのだから」と言いました。
ある人は「出すぎた杭は打てないとはいうけれど、出すぎた杭は抜かれるんだよ」と言いました。

僕は「出る杭」を積極的に育てたいと思っています。
それは、「自分の目で見て自分の頭で考える」人を育てたいのと近い感覚です。
でも、「出る杭を育てる」なんて言ってしまうと、「集団の和を乱す協調性のないとんでもない人間を育てようとしているのか」とお叱りを受けそうです。

そこで、「和して同ぜず」という言葉が自然と思い出されました。

リンク先より引用
"君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず
【意味】
君子は和して同ぜず小人は同じて和せずとは、すぐれた人物は協調はするが、主体性を失わず、むやみに同調したりしない。つまらない人物はたやすく同調するが、心から親しくなることはないということ。"

「和する」ことと「同ずる」ことの違いをふまえておかないと、「出る杭」をどう考えるのかが変わってきてしまいます。

「出る杭」は「集団の和を乱す」と思われているのだと思いますが、その感覚が変わっていかないと、本当の意味での「集団であることの価値」「集合知」はなかなか活かしにくいのだと感じます。

ただ「同じる」だけの「出ない杭」は色々なことを我慢する辛い生き方につながるかもしれません(個人の生き方の違いで、これを幸せと思う生き方もあるのだろうとは思います)。
でも、「同ぜず和せず」という「出る杭」はきっと孤立します。
「出る杭は和して同ぜず」が基本です。
その上で、「出る杭」を嫌がらず、むしろ面白がって積極的に活用していけるような集団が、(少なくとも僕には)心地よいのです。

出始めた杭は、見つけて、「もっと出ちゃいなさい」と後押しをしてあげたい。
その時に、「和せず同ぜす」ではなく、「和して同ぜず」の大切さを合わせて伝えたい。
それは、「教えられるもの」ではなく、「自ら気づくもの」であり、「体験の中で徐々に腹落ちしていくもの」だと思います。

そんな志向の「場作り」をますます意識したいと思いました。
いい言語化ができました。