"模範解答"より"もがいたプロセス"を

6月3日に開催された近未来ハイスクールのアンケートのまとめ記事
こんな感想が掲載されていました。

「すごい単純な理由でその仕事についた」普通ならこわくて一歩踏み出せない理由です。だけど「自分を追いこんで一歩踏み出した」「できないことはできないと割り切る」。勇気があれば、本当になんでもできるのだと感じました。(高1)

参加した高校生は、キャリアパスのイメージが少し広がったのだと思います。
「成功者」のイメージは、若いうちからはっきりとした目標があり、そのための努力を惜しまず、いい大学に行き、いい会社に入り、充実した生活を送りながら着実に成長していく、というようなものかもしれません。
でも、これってかなり特殊なことだと思います。

思い出したのは、数学の難問に対する「模範解答」。
どうやってアプローチするかもわからないような問題に対して、理路整然とし、かつスマートな解答が書かれている。
それを見ると「すごい・・・」と思うけれど、「こんなの自分でできないよ・・・」と思ってしまう。

ロールモデルのような「憧れ」をつくるという意味では、「きれいなキャリアパス」を知ることは、「きれいな模範解答」を知ることのように、意味はあるかもしれません。
でも、決定的な問題は「等身大の自分」が置き去りにされてしまうということです。

大変な難問を前に、足がすくむことがあるでしょう。
その時に、「うまくいったことが前提での模範解答」を示されても、うまくついていけません。
むしろ、その足がすくむような状況のときに、何を考え、どんな選択肢が思い浮かび、実際にどんな選択をしたのか、というプロセスの方が価値があるように思います。
それは、数学で言えば、難問を見たときに、どんなアイデアが浮かび、実際にどのようにアプローチして、どんな紆余曲折があって解答にたどり着いたのかというプロセスにあたるでしょう。
模範解答が知りたいのではなく、解答を作成するときに頭の中で起きていること、もがいたプロセスこそを知りたいのです。

きれいなプロセスだけでなく、あるシチュエーションでなにを考え、選択したか。
結果何が起こり、その後何を考えたか。
その「具体例」「練習問題」として職業人の話を聞き、考えることができれば、単に「すごい人のすごい話を聞いて満足」という受け身の姿勢ではなく、より主体的で意義深い体験にできることでしょう。

今、歴史教育も、膨大な暗記から脱却して、「考える歴史」を目指す動きになっています。
知る、覚える、ではなく「考える」ことが軸になるということです。
これも似たようなことだと思います。

知ることは大事ですが、「自分の頭で考える」ことはもっと大事。
それは、「1対多」の講演会方式ではなく、近未来ハイスクールのような少数対話形式でこそうまくいくことのような気がします。
高校生にとって、これ以上ない素敵な「場」だと思います。

 

また「足がすくんでしまうような難問」を目の前にしたときに、それをどのように感じるかは人それぞれです。

不安に支配される人もいるかもしれません。
そんな時は、「頼ることのできる誰か」の存在がとても重要で、その人をどう見つけたか、そしてどう相談して、どう決断したかという体験談を他者から聞くことができれば貴重な経験になるはずです。

ワクワクする人もいるかもしれません。
そんな人は、そのワクワク感を大切に、自分で信じた道を突き進めばいいと思います。
ときに、大きな失敗をしてダメージを受けてしまったときには、同じように難問に立ち向かったけれどうまくいかなかった人が、そのときにどう考え、次にどう行動したかという体験談を他者から聞くことができれば貴重な経験になるはずです。

多様な人が集まり、対話することの意味の1つは、こんなところにあるように思います。
その意味において、職業人も高校生も、対話により双方が双方から学びを得られるのだと思います。