"引き出す"の先にあるもの

これからの教員の職能として「教える」ことよりも「引き出す」ことが重要だろうと思います。
生徒の「主体的・対話的で深い学び」を実現するためのポイントになるとも思います。
教員が様々な工夫で生徒の力を引き出していく。
素晴らしい授業は、そういう要素を持っています。


僕自身の授業も、見学者の方にそのように表現されることがあります。
僕自身も「引き出す」ことは意識していますし、そこを見てもらえると嬉しさも感じます。
でも、同時にどうしてもそこには違和感があります。
それは、「引き出す」ことは、「教える」ことと同様に、教員が主語の表現であるという点です。


僕は、生徒に生き生きと学んで欲しいと思っています。
でも、目指したいのは「教員の手のひらの上で」生き生きするような学びではありません。
そんなものをさっさと置き去りにして、もっと自由に、広い世界で生き生きと学んで欲しいと思っています。


生徒の力を「引き出す」ための強力な方法は「問う」ことだと思います。
適切な問いを投げかけ、そして、問いに対して問いで返しながらやり取りをすることは、有効な方法だと実感もします。
しかし、上記のような「教員の手のひらの上」から飛び出していくには、教員から問いを与えられるのではなく、生徒自身が「自分だけの問い」を持ち、探究していく段階が必要だと感じます。


生徒がそんな活動を自発的に展開し始めたとき、教員はどんな役割を持つのでしょうか。
これも、昨日の中心的な話題の一つでしたが、おそらく「やり方」ではなく「在り方」なのだろうと思います。


今は、「言葉の定義問題」も含めて、「やり方」の議論がどうしても多くなっています。
でも、これからますます「在り方」が議論されるようになると思いますし、「やり方」については、極端に言えば「いかに"何もしない"状況を作るか」という議論がされるようになると思います。
後藤さんの表現をお借りすれば、「いかに教員は壁紙になるか」ということです。


「教員が主語となる何か」を超えた先を、僕自身は強く意識しています。
実際にはまだまだ道は果てしなく長いように感じます。
でも、悶々としながらも進んでいこうと思います。