介入の判断はどうあるべきか

「一体感が会社を潰す」より、「コドモの組織と大人の組織の特徴の対比」を引用しました。
「まさに!」と思うと同時に、ここでいう「大人の組織」を体験し、卒業後に散らばった先で「大人の組織」を創れる人になってほしいと思っていました。
ですから、この部分は、「自分が感覚的に得ていた部分を明文化してもらった」という感覚でした。
しかし、一方で、このように整理された表を見ながら、自分がこの半年間やってきたことを振り返ると、必ずしもその方向に向いていない「やり方」をとってしまっていたことに気付きます。


例えば、「個人と組織の関係性」では、「所属ではなく参加」という意識であってほしいと思いつつ、「所属」の観点からの「指導」をしてしまったのではないか。
「摩擦が発展の糧」と思いつつ、いざ摩擦が起きたときに、それを抑える方向に「指導」してしまったのではないか。
「判断基準」を「ビジョンとプリンシプル」におけば、細かい「ルールやマニュアル」はいらないし、むしろそれに縛られることで不自由になると思いつつ、実際には「ルールやマニュアル」を重視した「指導」をしてしまったのではないか。
それは、組織のそれぞれの構成員の「在り方」よりも、組織の「やり方」に重きを置き過ぎてしまったのではないか。


また、自分の立ち位置の問題もありました。
文化祭というプロジェクトをまとめるプロジェクトリーダーは、国高祭実行委員長と文化祭実行委員長の二人です。
僕は、彼らの「顧問」であり、プロジェクトリーダーではありません。
よくよく考えると、本来の「顧問」と、学校現場で教員が担う「顧問」の役割はかなり違いがあるように思います。
自分がプロジェクトリーダーとして動くのであれば、ある程度動き方もイメージできたのですが、「顧問」としては、何にどこまでどのように関わるべきかに関して、自分の中で明確にできないまま仕事を進めてしまったように思います。
例えば、ビジョンを創る、それを浸透させる、グループをチームにするための仕掛けをするなど、自分としては「自分でやりたいこと」が、「自分はすべきでないこと」だとわかっていて、でも、そうするとどんな関わり方をするべきなのかが見えていなかった、ということだと思います。


「生徒を信頼して任せる」という根幹の部分も、「大きなプロジェクトの責任ある立場」ということで、上記のことがわかっていながらも、ついつい介入し過ぎてしまったように思います。
つまり、ある程度自分の思い描くような方向性にコントロールをしようとしてしまったということです。
思い返せば、本当に後悔と自己嫌悪です。


「失敗が教えてくれること」では、利益獲得型と損害回避型の課題の性質の違いが述べられていました。
また、それらの課題を混同してしまうことで混乱が生じることも指摘されていました。
おそらく、僕自身の介入の程度や質も、まずはここを明確にしてから、冷静に分析しつつ進めていくべきでした。
このあたりの整理ができず、場当たり的かつ感覚的な対応が多くなってしまったように思います。


文化祭というプロジェクトの「顧問」としては、最低限「安全性」に関してを損害回避型の課題として、必要な介入をすべきでした。
また、プログラムやHPの記載内容など、外部に向けての情報発信についても、ある部分は損害回避型の課題として必要な介入をすべきでしょう。
実際、上記のことは教員が介入し「損害回避」を図ったわけですが、しかし、大半のことはそうではなく、利益獲得型の課題として、「失敗は必ず起きる」ということを共有しつつ、失敗の振り返りを通して成長する、生徒自身による自律的なサイクルを、より明確に、強く意識すべきでした。


また、組織の中での「お作法」もある程度大切、ということは事実です。
しかし、その「お作法」の大切さが、自分の中で必要以上に拡大してしまったのだと感じます。
そうして、本来の目的である「人間的成長」という視点が、いつしか「お作法の遵守」というものに矮小化されてしまったように思います。


こうして言語化していくと、本当に穴があったら入りたいようなレベルの、実にしょーもない「顧問」だったわけですが、それぞれの場面場面では一生懸命考え行動していたのです。
このことも、自分にとっては深刻さを増す要因でした。
つまり、「一生懸命に考えれば考えるほど間違う」という逆説的な現象が起きてしまっていたように思うからです。


このようなことを読書からの学びも含めてメタ認知できたのですから、それを基に「明日からの自分」をどう変えていくかを考えなければなりません。
ある程度アイデアは浮かんできました。
まだ何日か猶予期間があります。
その期間でもう少し明確にしていこうと思います。