"在り方"とは

アクティブ・ラーニングを語る文脈で、しばらく前から「やり方(doing)」ではなく、「在り方(being)」が大事であると耳にします(最初に聞いたのはイマキヨさんからだった気がします)。
僕自身も、この一年でその感覚が強くなってきました。
それを、「mustよりwant」「ALに必ずうまくいく型はない」という表現で情報発信してきました。


授業見学に来ていただいた方とお話する時など、在り方について説明をする機会があります。
その時、こんな話をしています。


授業で「この教室では失敗してもいいのです。むしろ、失敗をたくさん経験して欲しいと思っています」という語りをしたとします。
その後生徒の活動時間になり、活動の様子を観察している時に、生徒が明らかな失敗をしたことに気がついたとします。
このとき、「あー、失敗しちゃったかぁ・・・」と思ってしまったら、それは言葉にしなくても、自分の態度や、他の言葉かけをするときに「滲み出て」しまいます。
つまり、理念としては「失敗はよし」としているし、「失敗してもよい」と語ってはいるものの、実は「失敗は極力して欲しくない」ということなのです。
それは、「表面だけ取り繕って」いても、様々な形で「滲み出て」しまうのです。
この「滲み出てきてしまうもの」が、その教員の「在り方」そのものです。


「やり方」だけを真似しても、「在り方」がそこに通じていなければ、それはすぐに見抜かれるし、短期的には機能しても長期的には破綻してしまいます
それを、「やり方」のせいにしてしまいたくなるものですが、実際には「在り方」の方がより根本的で大きな要因になっています。


この夏も、様々な方の話を伺うことがありましたが、常に「その人の在り方」に興味を持っていました。
そして、「この人はすごい!」と思える人は、「話の中身」や「具体的な活動」のすごさもありますが、そうではなくて、その人自身から滲み出てくる「在り方」が素晴らしいのです。


僕自身は、夏休み前あたりから、うまく言語化できない違和感を自分自身に感じていました。
一昨日文化祭が終了したとき、その違和感はとても大きなものになっていました。
日曜日、文化祭が終わった時、僕の心を占めたものは、「達成感」ではなく、「後悔」と「自己嫌悪」と、少しの「安堵」でした。


この感情としっかり向き合わない限り、来週からの授業を、またその他の活動を地に足の着いたものにできないだろうと、焦りや不安を感じました。
そこで、昨日、今日の二日間を、その感情と向き合う時間にしようと決めました。


思考を進めていく中で、自分の中ではっきりと見えたものが「在り方」の問題でした。
先ほど、例で挙げたような、言葉で示すものと自分の在り方とが乖離していき、ついには在り方が変容しつつあったのだと自覚しました。
そして、そのことに気付き、とても恐ろしくなりました。


だから、このタイミングで「在り方」というものを軸に、今感じたこと、考えたことを言語化しておこうと思いました。
今の自分にとって、どんな実務よりも必要なことです。