"授業"の価値が認識できれば起こること

昨日は、午後出張でした。
午後は、3年生の理系生物の授業がありました。
板山先生も3年生の文系生物の授業が同時間にあるので、代わりに授業をお願いすることもできません。
「生殖・発生」の単元のプリントはまとめて配布してあるので、生徒は学習を進めるための材料に困ることはありません。
木曜日まで教育実習生もいるので、せっかくの機会だから少しお話をしてもらえると嬉しいということもお伝えしました。


そして、今日。
昨日の授業の様子を実習生に聞きました。
実習生3人でお話ししようと顔を出したのだけど、板山先生から大野不在が伝えられると、生徒は勝手にいくつかのグループを作り、学習を始めたそうです。
その雰囲気が、「学習の邪魔をしないで欲しい」というようなもの(と実習生は感じたらしい)だったので、実習生は数分話してすぐに出てきてしまったということでした。
生徒は教員不在の中でモリモリ学んでいたそうです。


新宿山吹でも経験があります。
トラブルで、授業に5分ほど遅れてしまった時、教室に行くと、すでに生徒はグループを作り学習を始めていました。
「あ、すいません、勝手に始めてます」
「あ、どうぞどうぞ、僕のことは気にせずにそのまま続けて下さい」


彼らに共通することは、"授業"の持つ価値を知っていることだと思います。
授業の価値は、「同じ時間、同じ場所に人が集まる」ことです。
その集まった人たちそのものが価値です。
いつも言っています。
「家で一人でもできることではなくて、ここでしかできないことに時間を使おう」と。
彼らは、なぜ時間が来たら教員がいるいないに関わらず学習を始めたか。
それは、「もったいないから」です。
ごく単純なことです。
これだけの人がすでに集まっているのに、何もしないなんてもったいない!
ただ、それだけのことだと思います。
でも、ただそれだけのことに気付けてもらえるだけで、僕はとても嬉しいのです。


実習生には申し訳ないことをしてしまいましたが、僕にとってはとても嬉しい「自分不在の授業」でした。