"場の価値"と"壁紙"

昨日は、授業公開&情報交換会に20名以上の方に来ていただきました。
もともとは、武蔵大学の武田先生と、立命館宇治中学高校の小竹先生に来ていただけるということで、「幸せのお裾分け」をしつつ、「新たな面白い場」を作れたらいいなぁと思い、facebookで広報しました。
すると、「面白い人」に会うために、「新たな面白い人」が参加表明をして下さり、その「新たな面白い人」に会うために「また新たな面白い人」が参加表明をし・・・ということで、どんどん膨らんでいきました。
参加者のためのグループを作成しましたが、武田先生が「芋づる会」という素敵な名前を付けて下さり、まさにその通りの「場」になりました。


もはや、「大野の授業を見に来た」という人はマイノリティに思えました。
昨日、一番嬉しかったのは、僕が部屋からしばらくいなくなっても、誰もが気付かないし意識していないし、また戻ってきてもほとんど誰もが気にかけずに活発な情報交換を続けていたということです。
後藤さんは、以前に「教員は"壁紙"でよい」というお話をされていました。
今日の僕は、壁紙であろうと思いましたし、上記の光景を見たときに壁紙であれたと思えました。
それが嬉しかったのです。


いつも、授業で言っています。
学校や授業の価値は、「同じ時間と空間を共有すること」である、と。
だから、「そこに集う人々」そのものが価値なのです。
それを、ぼくが一方的に話す時間を長くとってしまったら、集まってくださった方々の「面白さ」を共有する時間が少なくなってしまいます。
そんなもったいことはありません。
だから、授業後の振り返りも15分程度で切り上げ、自己紹介もごくごく短時間で終わり、自由な情報交換の時間としました。
「その空間、時間をどのように意義深いものにするのか」は、他人ではなく、自分自身にしか決められないし、わからないからです。


午前中には、近隣の中学校の授業見学の企画が自然と立ち上がっていました。
ランチ会の企画や、「夜の会」の企画も自然と立ち上がっていました。
そこに僕の存在はもはや消えています。
自然発生的に生まれた様々な場で、人がつながっていく。
その「きっかけ」だけを作り、自分の存在は消えていく。

 

学校という場の中で、自分はこうありたいと思います。
そこに少しずつ近づけたと思えた1日でした。
参加していただいた皆様、ありがとうございました。