食べ物を欲している人の例え話から

食べ物を欲している人の有名な例え話。


魚を与えることはできる。
しかし、魚の採り方を教えてあげれば、ずっと魚をあげなくてもよくなる。


このこと自体はすごく意味のあることだと思います。
しかし、そこからさらに考えてみます。
仮に「魚が採れなくなった」場合にどうなるでしょうか。
「魚の採り方」はわかっていても、その魚が取れなくなってしまったわけですから、再び元の状態に戻ってしまうかもしれません。


こんな妄想をすると、こう思います。
「魚の採り方というスキル」よりも、「魚が採れなくなったときに対応できるマインド(とスキル)」がより重要なのではないか。
今自分の目の前にいる生徒に、安易に「魚」を与えたくない。
「魚の採り方」は大事なスキルかもしれないけれど、「魚の採り方」を自分たちの試行錯誤で獲得させるプロセスを経験させたい。
そして、「魚が採れない」状況で何を考え行動できるか、そこで必要となるマインドを獲得させたい。


「魚」をあげれば、「魚をくれないこと」に不満が生じます。
「魚の採り方」を教えてあげれば、「魚が採れない状況」におかれたときに、教わったことは何の意味もないではないかと不満が生じます。
どんな場所にいても、「自分の目で見て、自分の頭で考える」ことができること。
多様性の価値、協働することの価値、失敗することの価値を知っていること。
そんなことがより本質的だと思えます。
授業も部活も行事も、そして大学受験指導も、すべてこの軸で考えています。
どんな「価値」を語り、どんな「場」を提供するか。
それをいつも考えています。