流派を超えて

アクティブ・ラーニングに、様々な「流派」が登場しつつあります。
それ自体は自然なことです。
僕自身が大切にしたいこと、あるいはこれからアクティブ・ラーニングに挑戦する人に大切にしてほしいことは、wantとcanです。
mustやshouldは辛いものです。

 

また、「普通」と「正しさ」も常に疑っています。
「普通」は「普通でないもの」を排除します。
だから、排除されないために「普通」であることを主張します。
「正しさ」は「正しくないもの」を排除します。
だから、自らの正当性を訴えるために「正しさ」を主張します。
どちらも、多様性と共生の流れとは違うように思えます。

 

Mr.Childrenの「掌」という曲の歌詞がここ数日頭を巡っています。

 

"ステッカーにして貼られた本物の印
だけど そう主張している方がニセモノに見える"

 

"君は君で 僕は僕 そんな当たり前のこと
何でこんなにも簡単に 僕ら
見失ってしまえるんだろう?"

 

"ひとつにならなくていいよ
認め合うことができればさ
もちろん投げやりじゃなくて
認め合うことができるから
ひとつにならなくていいよ
価値観も 理念も 宗教もさ
ひとつにならなくていいよ
認め合うことができるから
それで素晴らしい"