誰かの心に生き、誰かの心が放たれる

8月1日、2日の『学び合い』フォーラムの際、何人もの方のFBの記事やコメントで、ある『学び合い』実践者の方について書かれていました。
その方は、2014年7月に亡くなりました。
僕はその方にお会いしたことはありませんが、偉大な方だったようです。
その方について書かれたたくさんの文章を見て、Mr.Childrenの「放たれる」という曲が心に浮かび、そして何度も何度も聞きました。
曲の最後に、こんな歌詞があります。

 

”遥か遠い記憶の中で あなたは手を広げ
抱きしめてくれた まるで大きなものに守られている
そんな安らぎを感じる 今でも・・・

 

もう二度とその温もりにその優しさに触れないとしても
いつまでも消えない愛が一つあるの それで強くなれる
だからもう恐れることはなにもないの 心は空に今そっと放たれる”

 

亡くなって約1年が経ち、東京で大きなフォーラムが開催された。
大きなイベントで、新たなつながりがたくさん生まれている中で、それでも多くの人の心に、その方は顔を出していた。
そして、多くの人の心が、少しだけ“放たれた”。

 

「死後の世界はあるか?人は死んだらどうなるか?」などと小学生から中学生くらいの頃に悶々と考えていたことがあります。
それは、「なくなる」ということへの恐怖心とほとんど一体のものでした。
でも、ある時思いました。

 

人は死んだときに「なくなる」のではない。
人の心から忘れられたときに「なくなる」のである。

 

色々な人が同じことを様々に表現していますが、僕自身もこんなことを考え、それが心に落ちたときに、小さい時からの「なくなる」ことへの恐怖の感情と折り合いをつけることができたように思えました。

 

さらに、今回のことから、新しい気付きを得ました。
「忘れられない」という消極的な表現ではなく、むしろ「心の中にふっと現れては、心に寄り添い、そして心が少し放たれる」というようなより積極的な表現もある、ということ。
僕自身にも、ときどき心の中にふっと現れる人がいます。
そして、少しだけ心が放たれるのです。

 

こんな「つながり」を持てたら、それは幸せなことなのではないでしょうか。
教員は、生徒の「幸せ」を願います。
西川先生は、最善は「仲間を与えること」だと言いました。
僕は、「生きていても、死んでしまっても、心の中にふっと現れて、心を軽くしてくれる人」が一人でもいてくれれば、人間は前を向いて生きていけるのかもしれないと思います。

 

亡くなってしまったその方は、『学び合い』実践者であり、死してなお、多くの人に『学び合い』マインドを伝え続けています。
大きな方です。
僕は、生徒の心を僕自身が放ってやる必要はないと考えます。
でも、そんな「つながり」を、授業を、部活を、行事を、学校生活全般を通して、一つでも多く見つけ、あるいは感じて欲しいと強く願っています。

 

※その方が亡くなられたときに、やはり多くの方の書かれた様々な文章を読みながら感じたことをブログに書きました。