"地に足のついた抽象化思考"の重要性

東大の中原先生のブログ記事で、様々なことがつながってきました。
内容的には、一度ですんなり理解できるものではありませんでしたが、2度3度と読むうちに少しずつ思考が整理されていきました。
分量も多く、かつ密度も濃いので大変かもしれませんが、シェアさせていただいたブログ記事を(そしてできれば僕の書いたこの記事も)読んでいただきたいと思います。


「スーパーメタ社会」を生きるビジネスパーソンに必要な3つの能力とは何か?


この記事で、必要な3つの力とされているのは、

1.そもそもを問う力
2.データを収集し分析する力
3.企画のへそをつくる力

です。


それぞれについて、引用します。


"第一の「そもそも力」とは、問題解決の場面などで、いったん自分たちの立っている枠組みをとっぱらって、常識を疑いつつ、「そもそも」の域から物事を考えるちからです。別名「ちゃぶ台かえし力」ともいいます(笑)。"


"第二の「データ料理力」とは、量的データ、質的データをとわず、自分の足と手でデータを収集してきて、料理する力です。
自戒をこめて申しますが、ふだんのプレゼンでは、時間も無いので「何となくホワンとぐぐって」、他人の統計情報を引用してしまうこともありえます。このことは、先日も、ある方が自嘲気味におっしゃていたました。
しかし、ここで求められているのは「何となくホワンとぐぐる」のではなく、「自分の足と手でデータを料理すること」です。
自分の足と手でデータをひろって、それを料理して、抽象的な議論につなげていくことに戸惑いを感じられる方が少なくありません。"


"最後は「ワンワード力」です。問題を同定し、データを収集し、企画や施策はつくりこんだ。この一連の施策の「へそ(Keyになること)」を「ワンワード力」で表現し、聴衆に伝えなくてはなりません。ここに苦手意識をお感じの方が少なくありません。"


素晴らしい整理だと思います。
常日頃から自分でも意識していることが、非常にクリアに言語化されています。
さらに、これらの3つの力が、結局大きな一つの方向性を持っていることが示されます。


"ワンセンテンスでいえば「地に足のついた抽象化思考」。「そもそも力」「データ料理力」「ワンワード力」によって可能になるのは、「地に足のついた抽象化思考」です。
私たちの生活世界には、様々な問題がある。その問題や課題を「そもそも力」によって同定し、「データ料理力」によって「抽象化」し、よりメタ(上位)な、一般的なコンセプトをつくりだす。要するに、こういう思考法が、重要であるように思います。"


なるほど、と思います。
僕自身は「自分の目で見て自分の頭で考える」ようなクリティカルな思考を重視していますが、それは、「地に足のついた抽象化思考」につながっていくし、それを意識しておくだけで思考の質は高まるだろうと思いました。
演繹的な思考ではなく、帰納的な思考を意識する。
目の前の「与えられた課題の解決」という狭い意識ではなく、目の前にある「明らかな課題」の「裏にあるかもしれないより本質的な課題」を発見しようという広い意識を持つ。
そして、発見した課題に対して、借り物の思考ではなく、自分の目で見て自分の頭で考え抜く。
そこで得られた知見を、「目の前にある課題」をとりあえず解決するだけでなく、「より広範に、普遍的に存在するかもしれない課題」に対して何かを提示しようと試みる。
このようなプロセスが「地に足のついた抽象化思考」なのだと感じます。


この時、「ビジョンとゴール」を意識することも重要です。
「そもそも」と思考をスタートすることができるのは、「大きな目的」を常に意識する中で、「普通はそうだから」という思考停止をすることなく、本質を見ようとするからです。
これが「求道者のマインド」だと思います。
ですから、「求道者のマインド」を持っていることを前提として、思考をどう深めていくよいのかに関しての「思考のヒント」あるいは「思考のの作法」を示してくれているのがこの記事だと思います。


記事では、このような思考が今後特に必要とされる理由について、以下のように述べられています。


"自らが「知識や概念を創造する」だけではなく、「自ら知識や概念を創造する人をまとめる場や機会を創造する」ということです。少し抽象的な話ですが、それが僕のいう「スーパーメタ化」です。"


また、最近話題になっている「大学の人文社会科学系の学問」の是非に関して、以下のような指摘をされています。


"僕はこう思います。
もし、人文社会科学と形容される学問が、「社会で起こりうることのルール・原理を抽象化して探究すること」にかかわっている「学問」なのだとしたら、スーパーメタ社会を生きるであろうビジネスパーソンに必要な「そもそも力」「データ料理力」「ワンワード力」は、そこでの学問的修養をもって学ばれるのが適当である、ということです。"


"「そもそも力」「データ料理力」「ワンワード力」・・・知の創造のトレーニングを教育機関でなしとげることができたとしたら、これ以上、素晴らしいことはありません。
こうしたものは就職のときには「すぐには必要はない」かもしれませんが、やがて「ジワジワ」と「必要」になるのです。
戦略やビジョンをえがき、人を動かす。
「リーダーシップの要諦」が、このワンセンテンスで形容できるのだとしたら、そもそも人を巻き込み、動かすことのできる源泉ーすなわち戦略やビジョンは、「抽象化の思考」から生まれます。
こうした「抽象化の思考」はいわば「筋トレ」のようなものです。短い時間に「パンツをはきかえる」がごとく「身につけること」は極めて難しい。毎日毎日、フィードバックをうけ、メタにあがるトレーニングや経験を積むことができて、はじめて抽象的な思考が「癖」になります
そして、社会にでたあとは、とにかく忙しく、こうした能力をあとから獲得することには相応のコストがかかるのです。"


どれもとても納得できる話です。
であるならば、学校は、授業はどうあるべきか。
当然、「知識の詰め込み」ではないはずです。
このようなことからヒントを得て、それぞれの教員が「ビジョンとゴール」を明確にし「求道者のマインド」を持ちながら、目の前で繰り広げられる様々なことを材料に「地に足のついた抽象化思考」を展開していく。
そして、そんなことの価値を語り、それを生徒にも経験させられるような場を提供する。
身につけるべきスキルは、「才能」ではなく、「トレーニングにより誰でも身につけられる力」であるはずです。
それをどこまで求め、どこまで強く意識し、そしてどこまで継続しやり抜くことができるか。
それが、教員にも高校生も問われています。