支援は「知ること」から

福島への「善意の押し付け」は、ただの自己愛
「前のめりの正義感」は確実に滑る


下に引用した部分、すごく重要だと思います。
「何が本当に必要なのか」を問い続けながらの支援が重要です。
教科「奉仕」の仕事に2年間関わった経験からも、「まず知ること」が大事で、その上での「相手に寄り添う適切な支援」があると思います。


少し前によく目にした「アイスバケツチャレンジ」に感じた違和感も似ています。
「支援」という名目で、当人が楽しんでいる(ように見える)。
もちろん、形だけでもあのように参加して「関心」を持ってもらったことだけで嬉しく思う患者さんもいたと思いますが、そうでなかった患者さんもいたことでしょう。
意味があったかどうかは、僕が論じられることではありません。
データもありませんし、「患者さん」といっても、そこに「非患者」と同様に多様性が存在するからです。
僕が感じた「違和感」は、「患者さんへの支援」という本来の目的が見えにくくなり、「アイスバケツチャレンジ=善」という構図がなんとなく成立してしまっていたことです。

「目的」が同じであっても、「方法」は多様であるはずです。
僕自身の考える「支援」という目的に対しての「方法」は、「まず知ること」です。
それは、福島の支援も、障がい者の方の支援も、目の前の多様な生徒への支援も同じことだろうと思います。


記事より引用

"憐憫(れんびん)の情、かわいそうだという思いはしばしば“上から目線”になり、問題をむしろ悪化させる。何となくの当てずっぽうな支援を押し付けるだけでは、現にそこに生きている人たちのニーズを満たせないし、むしろありがた迷惑になってしまう可能性がある。

外で遊べないらしい子供たちのために毎年幼稚園に積み木を贈るとか、もちろん善意だろうけど、子供を外で遊ばせられるよう、どれだけ地元が努力してきたか。そこからどれだけ時間が経過したか、何も理解しようとしていない。理解する努力をはしょって、善意だけを押し付け、悦に入ろうとするのは、単なる自己愛に見える。"