最後の学級通信

3月24日、卒業式の日に配布した最後の学級通信の転載です。


卒業、おめでとうございます。
もうほとんど皆さんにいうべき言葉もないのですが、最後に伝えておきたいことを文章にしてみました。すでにHRで話したことの繰り返しになると思いますが、何か一つでも皆さんにとってプラスになることがあれば幸いです。


豊かな人生を歩むために

以下の3点が、どれも欠けることなく、バランスよく存在するときに、人生は豊かになることでしょう。
①信念を持ち、それを貫く強さ
②状況によって他人と折り合いをつけられるしなやかさ
③他人を認め、学び、吸収しようとする謙虚さ
①があっても、②や③がなければ、傲慢な生き方になってしまいます。逆に、②や③があっても①がなければ、主体的で豊かな人生にはならないかもしれません。

「幸せの感受性」を高める

同じ環境におかれても、人によって「幸せ」を感じる人とそうでない人があります。

より幸せを感じやすい状態を、僕は「幸せの感受性が高い」状態と表現しています。

相田みつをさんの言葉に

「しあわせはいつもじぶんのこころがきめる」

というものがあります。

「幸せ」はどこかに存在するものではなく、自分の心が「感じる」ものです。

歌手の甲本ヒロトさんの言葉には

「幸せを手に入れるんじゃない。幸せを感じることのできる心を手に入れるんじゃ」

というものがあります。

これは、「幸せの感受性が高い」状態と言い換えることができます。

では、どうすれば「幸せの感受性」を高めることができるのでしょうか。

「体験」の重要性

幸せの感受性が高まるのは、「体験」しかないだろうと思います。

例えば、病気をして、ご飯が食べれない状態が続いたとします。

その後、病気が治癒してご飯を食べたときに、それだけで幸せを感じたります。

これは極端な例ですが、様々な体験、特に自分が苦労したり、辛い思いをした体験というものが、「当たり前」のありがたさを実感させ、幸せの感受性を高めることはよくあることだと思います。
また、「幸せの感受性」が高い人たちに囲まれて生きることによって、自分自身の「幸せの感受性」も高まっていくことでしょう。

毎日、ちょっとしたことに感謝できる人に囲まれていれば、自分もちょっとしたことに感謝できるようになる、ということです。
皆さんには、人生の様々な体験から「幸せの感受性」を高めて欲しいと思いますし、そのことで周囲の人の「幸せの感受性」も高めてほしいと思います。

「他責」思考からの脱却

何か自分にとってよくない状況が生まれたときに、それを他人のせいにしがちです。

でも、それは「幸せの感受性」を高めません。

何か問題が生じたときに、冷静に状況を分析することが大切です。

よく「過去と自分は変えられないけれど、未来と自分は変えられる」と言われます。

安易に他人のせいにするのではなく、「自分には何ができるか」を考え、行動することが大事だと思います。

それは、幸せの感受性を高めることにつながります。

「逃げる」とういう選択肢を持つ

「他責」ではなく、自分にできることを探しても、どうしても状況を打開できない、無力なときがあります。

時に人はそれで弱ってしまいます。

そんなときは、その環境から「逃げる」ということも選択肢の一つとして考えるべきだと思います。

それは、「弱さ」からではなく、「よりよい未来」のためのありうる選択肢だと思います。

「逃げる」ことのできない世界は息苦しいものです。

熟考した上での「逃げる」という選択肢は大事だと思っています。

「多様性」を大切に生きる

私たちは、日常的に「ふつう」という言葉を使ってしまいます。

しかし、「ふつう」とは何でしょうか。

僕は、「ふつう」なんていうものはないのだろうと思っています。

人は皆多様であり、誰一人として同じ個性を持つ人はいません。

にも関わらず、「ふつう」を定義したいのは、「ふつう」と「異質」を区別し、「異質」を「ふつう」に近づけ、また「ふつう」に近づかない「異質」を排除するためなのだろうと思います。


海外旅行に行くと、異なる文化に触れ、様々な多様性を実感すると思います。

しかし、実は多様性はどこにでも存在します。

多様性を実感し、それを生かすことができれば、それは豊かな人生につながります。

しかし、「ふつう」を中心に、「異質」を排除することは全く逆をしていることになります。


自分は「ふつう」でなくてもよいし、あなたも「ふつう」でなくてよい。

私もあなたも多様性の一つ。

そう考えることが大切だと思います。

そして、それらの多様性を「嫌だなぁ」とネガティブにとらえるのではなく、「面白がる」ことが、多様性を生かすための方法であり、それは「幸せの感受性」を高めることにつながります。

「正しさ」はどこにもない

「正しさ」や「正義」が語られることがあります。

最近はそういう語りに疑問を持っています。

「正しいもの」が語られるときには、同時に「正しくないもの」が意識されます。

そしてそれは、排除される対象になります。

しかし、ある人にとってはそれこそが「正しいもの」であるかもしれません。

戦争は、その典型的な例だと思います。


人の多様性を生かす道を考えるとき、「ふつう」が「異質」を排除するのと同様に、「正しいもの」は「正しくないもの」を排除してしまいます。

でも、人はそれぞれの「正義」を持っています。

そのため、万人にとっての「正義」は存在しないのです。

にもかかわらず、あたかも絶対・普遍の「正義」が存在するように語られることがあります。

それは危険なことだと感じます。


皆が「幸せの感受性」を高め、幸せを感じられる世界を築くためには、「信念」「折り合い」「謙虚さ」が必要です。

そこには、絶対・普遍の解があるわけではなく、集団を構成する一人ひとりが尊重され、その都度個人や集団の意思決定、行動選択がなされます。

「ふつう」や「正しさ」は、集団の構成員のある人間にとって都合がよくなるように思考停止を促すもののように思います。

思考停止することなく、常に集団全体にとってベターな選択ができるような心の構えを持っていて欲しいと思います。