クリティカルシンキングとは

君は批判する権利があるか? 批判のマナーを教えてくれた教授の一言が人生でめちゃくちゃ教訓になっている


批判をするときには、「相手の本当に言いたいこと、何を言いたいのかということを本当に理解しようとしているか」ということが重要だという指摘

その通りだと思います。


日本の、高校までの教育では、「クリティカルシンキング」を学ぶ機会がほとんどありません。
だから、クリティカルシンキングとはどのようなものなのか、イメージも持てないこともままあります。
僕自身の理解から、この記事の内容に思うところがあったので記しておきます。


クリティカルシンキング(critical thinking)を、そのまま訳すと「批判的思考」となります。
だから、この記事にあるような、「とにかく批判の材料を探して指摘すればよい」のような解釈になりがちです。
しかし、criticalには、単に「批判的」というだけでなく、「ものごとの本質をつく」というようなニュアンスがあるように思います。
本質をつくための一つの視点、あるいは方法として批判があると思っています。
何事も最初から鵜呑みにすることなく、情報と主体的に向き合い、解釈していく。
それを僕は、「自分の目で見て自分の頭で考える」という表現で大学時代に学びました。
僕にとっては、思考の作法の大きな転換点でした。
それを教えてくれた先生に、今でも深く感謝しています。


ものごとの本質をつくということは、「相手の伝えようとしていること」を理解し、自分の持つ理解と比較し、その差異を明らかにし、そこから建設的に議論を進めていくために必要です。
逆に言えば、そこにつながらない「批判」は、もはやただの「攻撃」であり、そこに「対話」という生産的な営みは見られません
そこでは、思考や表現のための「作法」のようなものがあります。
その「作法」もわからず、自分の持つ「知」で相手をやり込めることは、自らの「知」を広げ、深めることにつながりません。


高校教育でも、クリティカルシンキングの作法を可能な限り伝えるべきだと思います。
そのためには、まず自分自身も含めて、教員が理解を深める必要があります。
日本の教育には良いところがたくさんありますが、クリティカルシンキングについては、最も苦手とすることの一つだろうと思います。
様々な「実践知」をもちよって、対話をし、深める場。
それを生徒に伝える場。
それを、これから多く創造していきたいと思います。


"そもそもぼくらが議論をするのは
「時間」という大事な限られた資源を使って、
少しでも得しようとか
少しでも楽しくしようとか
少しでも誰かを救おうとか
少しでも世界をより良くしようとか
そういう「前進」や「変化」を生み出すためで。
「正しい」「間違い」とかの点数付けをして
今日の暇つぶしにやんややんや言うためではありません。
特に大学や企業での議論なんてなおさら。"


"自分が批判される側になれば、
もしも相手が
「自分の本当に言いたいことや、実現して欲しいと思っていることを理解しようしている人だなあ」と思ったら、
多少苦い意見でも耳を傾けたい。"