探究の芽は協働にある

東大付属中等教育学校公開研究会の振り返りの2回目です。
全体会で、校長の小玉先生のスライドにこんな内容がありました。


“探究自体は孤独な営み(ハンナ・アレント)。しかし探究の芽は協働(異質な他者との共存在としての公共的世界)から生まれる(Biesta 2010)。”


これが個人的にすごく刺さりました。
「探究」というものをどう捉えるかや、その在り方について、自分として確固たる整理ができていない中なので、今後考え方が変わる可能性はありますが、この表現には多くのヒントがあるように思います。


例えば、生命科学の研究を考えてみます。
「探究」とは、研究の営みそのものです。
自分自身の研究は、(学生だとテーマは指導教官から与えられるかもしれませんが)結局は自分の頭で発想し、行動し、振り返り、深めていくものだと思います。
しかし、そのための重要なきっかけやヒントは、人との協働、対話の中にあります
日本とアメリカの研究環境の違いの一つが、この「協働」や「対話」の量や質だと言われます。
日本では、ラボ同士のすみわけや、ラボ内での実験机のすみわけがある程度はっきりしており、協働や対話が生まれにくい状況があると思います。
すると、隣のラボで何をやっているかよくわからないという状況も生じます。
それに対して、アメリカではそのようなすみわけは日本ほどはっきりしておらず、日常的に対話や協働の機会が生じやすい状況があると思います。
また、カフェなどで異分野の研究者同士が交流することで、様々なアイデアが出され、そこから新たなアイデアが生まれ、ということも日本に比べると多くあるようです。
それが、研究成果の質・量に影響している可能性があると思っています。
※上記に認識の誤りがある場合には教えていただけるとありがたいです。


協働や対話では、「探究の芽」がたくさん得られます。
それを基に、研究を深めることができるのでしょう。
僕自身もそうです。
この公開研究会も、今日開催された「おにぎりの会」も、人との対話を通じて、僕自身の「探究」に関する「芽」をいくつも感じることがありました。
でも、それは協働、対話で完結するものではなく、あくまでも「芽」として持ち帰り、あとは個人で深めていく時間と、それを言語化する作業の時間が必要となります(今がまさにそれだと思っています)。
実は、授業でも似たようなことが起きている可能性があります。
協働、対話の中に「探究の芽」がたくさん落ちている。
その芽を摘むことなく、思う存分深めることのできる環境がはたして用意されているか


昨日の對比地先生の授業(『学び合い』の素晴らしい授業でした)で、終了後にある生徒が話していたことが印象的です。
その生徒は、この授業に抵抗感があり、それは「制限時間がある中で全員達成を求められるからだ」ということでした。
もしかしたら、その生徒は「探究の芽」を見つけたのかもしれません。
しかし、それを自分で心行くまで深めることは、「制限時間と全員達成」という中でうまくいかないことが多いと感じているようなのです。
「全員がわかる」への仕掛けとしての授業デザインと、また別に「探究」という軸で考えた場合には、違った授業デザインもありうると思っています。
全ては、「目的」と「生徒の実態」に応じて、です。