大学はどうあるべきか

G型大学、L型大学で話題になった冨山氏の以下の記事を読みました。。

冨山和彦氏、大学教員の「選民意識」にモノ申す 日本の大学教育は大多数者の役に立たない

元々は、この議論については、2014年10月に文科省での会議資料として提出された下の資料が発端です。


我が国の産業構造と労働市場のパラダイムシフトから見る高等教育機関の今後の方向性

これについては、下の記事にあるように様々な議論がありました。

「G型大学×L型大学」一部のトップ校以外は職業訓練校へ発言の波紋


”中でも議論を呼んでいるのが、職業訓練校化の内容だ。たとえばこんな例を挙げ説明している。

「文学部はシェイクスピア、文学概論ではなく、観光業で必要になる英語、地元の歴史、文化の名所説明力を身につける」「経済・経営学部は、マイケルポーター、戦略論ではなく、簿記・会計、弥生会計ソフトの使い方を教える」「法学部は憲法、刑法ではなく、道路交通法、大型第二種免許を取得させる」「工学部は機械力学、流体力学ではなく、TOYOTAで使われている最新鋭の工作機械の使い方を学ぶ」といった具合だ。”


これらの内容があまりに極端すぎて衝撃的だったため、様々な批判が展開されていました。
僕自身も、当初批判的にこの資料を捉えていました。
しかし、上記の記事にはこのような考え方もあります。


”本レポートは、冨山氏が6月に出版した「なぜローカル経済から日本は甦るのか GとLの経済成長戦略」(PHP新書)を下敷きにしている。要点だけをまとめると、従来の大企業と中小企業という分類をやめ、G(グローバル)企業とL(ローカル)企業とに分けて考えろというものだ。G企業とは、自動車、電機・機械、医療機器・製薬、情報・ITといった企業であり、GDPに寄与する比率は30%程度。
一方、L企業は交通・物流、飲食・宿泊・小売(対面販売)、医療・介護・保育等でGDP比率が70%にものぼる。G企業はグローバル経済圏で完全競争にさらされ、勝つか負けかの戦いを強いられる。そのため、高度なグローバル人材が必須となる。しかし知識集約型だから、多くの社員を必要としない。一方L企業は地域に根を張り、人を相手にするため労働集約型で人手を必要とする。いま少子化で、多くの地方企業が人手不足に陥っている。
一部のトップ校は世界に通用する高度人材を育成し、それ以外の大学はL経済を支える人材育成を担う。大学もG人材とL人材の両方を追いかけるのではなく、機能分化すべきだ、というのが今回の提言の趣旨だろう。我が国の産業構造と労働生産性の観点からは、至って合理的な主張だと思われる。”


そして、今回の記事です。
大学に「アカデミック」な要素だけでなく、「実学」の要素を入れるべきだという主張は、最初は違和感を覚えましたが、しっかりと向き合うべき重要な問題であることを認識しました(何しろ、最初に話題になった資料の「具体例」が極端すぎて面食らったというのが大きいのです)。
グローバルに活躍する人材育成を、「全ての大学の全ての学生」に要求するのは、現実との大きな乖離があるように思います


大学は、俗世間から一線を画し、アカデミックな世界にどっぷりとつかることによって、「ものの見方や考え方」を劇的に変えてくれる、そんな機能を持つ場だと思っています。
入学前と卒業後で劇的な変化をもたらす「ブラックボックス」とでも言えばよいのでしょうか。
ただし、そのブラックボックスの中身は様々で、「こういう理屈で、こう人が変わります」と整理して表現することは困難なように思います、


今やこれだけ大学が増え、また子供の数が減り、「大学」は「有識者」の考えるような場ではたして在り続けているのか。
また、意味ある「ブラックボックス」として機能しているのか。
本来の機能から言えば、大学は「とりあえず行っとく」ようなものではないはずです。
それでも、「とりあえず行っとく」のであれば、そこに従前とは異なる「新たな機能」が求められ、また発揮されてしかるべきなのだと思います


僕自身もそうですが、大学というブラックボックスの機能をある程度体感し、前後での自分の大きな変化を実感すると、大学を職業訓練校のような「しょーもないもの」にするなという想いが湧いてきます。
しかし、同時に、大学というブラックボックスが「本当にどこまで本来の意味の機能を有しているのか」について、目をつぶっている部分もあるのではないでしょうか。


僕にはまだ答えはありません。
しかし、高校生や大学生を見ていると、大学が「モラトリアムの延長」の場として機能しているケースが多いように思えてなりません
そこで触れる「アカデミックな世界」は、単なる「チェックポイント」になっているのかもしれません。
そして、結局一番影響力があるのが、看護に代表されるような「実学」的な内容なのではないでしょうか。
それは「職業訓練校」的な大学のイメージと何が異なるのでしょうか。


大学の持つ「アカデミックな世界」とは何か、そしてそれは誰に対してどんな意味を持つのか。
今現在存在する「大学」全てで、その理念に違わぬ機能が実際に発揮されているのか。
僕自身にまだ答えはありません。
しかし、「何も決まってないならとりあえず大学行っておいた方がいい」という高校での進路指導とは、もう一度根本から向き合ってみる必要性を強く感じています。


以前にある方から聞いた、「大学」時代の話。


“理系とか文系とか関係なく、皆大学生になったら、まずは「若きウェルテルの悩み」を読んで、それについて夜な夜な激論をしていた。”


あぁ、そんな時代があったんだなぁと思います。
「大学とは」ということを考えると、いつもこのことを思い出します。
色々と情報を集めつつ、今後真剣に向き合い、思考しようと思います。


記事より引用

“日本の大学教育は、丸の内にオフィスがある大企業で働くような偏差値的エリートだけを想定しています。しかし日本経済は今や中小企業が主役です。大企業で働く人の比率は過去20年間減少し、今や10%台しかない。圧倒的多数の人は中小企業で働いているのです。そして中小企業は雇用の流動性が高いのが特徴です。かつてのように、いわゆる一般教養を大学で学んで会社に入り終身雇用で勤めあげるという人は、今の若い世代では極めて少数です。そして今後も増えません。”


“私はアカデミックを否定しているわけではまったくありません。高等教育は、アカデミックスクールと実学を教えるプロフェッショナルスクールの「二山構造」にするべきだと言っているのです。日本以外の先進国はどこも基本的に二山構造です。日本だけ実学の山がないというのは、ある種の職業差別といっても過言ではありません。”


“七面倒くさい受験勉強をやって大学に入って、大学の近くに住んで、高い授業料を払って毎日通学して……そこまでしなければ教養を与えないというなら、それはかつてのカトリックと発想が同じ。教員が知識の独占者でいたいのでしょう。コアにあるのは、大学教員のものすごい選民意識だと思います。”