「内側」を広げること、「重なり」を探そうとすること

ともだち100にんできるかな。


この記事にある、「ともだち」の定義。


「相手に求められたら、自分のできる範囲で助けようと思える人」


すごく共感します。
授業でも、関係性ができていないとなかなか「教え合う」という活動につながらないことがありますが、時間をかけてある程度関係性ができてくると、自然と「教え合う」動きが生まれてきます。


自分と関係性のある「内側」の世界と、自分とは関係ない「外側」の世界に大きな断絶があるように感じます。
これ自体はもったいないことですが、それを無理に混ぜようとしても、うまくいくとは限りません。
一つの考え方として、「内側」と「外側」の関係性で混ぜる、のではなく、まずは「外側」から「内側」に引き込み、そこから混ぜるというのも有効だと思います。
そのためにはどのような「仕掛け」が必要か。
端的にいえば、どうすれば「関係のない他人」を「自分と関わりのある人」に、そして「ともだち」にできるのかという仕掛けです。
こういう意味で、アイスブレークは効果があります。


「相手から求められたら助けようと思える人」は、おそらく「自分が求めれば助けてくれる人」とも重なるのだと思います。
「助け」には目に見える価値が伴わなくてもいいのでしょう。
「雨漏りにザル」でいいのだと思います。
能力や年齢、立場は関係ないのです。


自分の「内側」と、相手の「内側」が一致するとき、それは「ともだち」といえるのでしょう。


『学び合い』の学校観にはこうあります。


●学校は、多様な人と折り合いをつけて自らの課題を達成する経験を通して、その有効性を実感し、より多くの人か?自分の同僚て?あることを学ぶ場である


これは、「内側」を広げていく営みとも言えるかもしれません。
「内側」が広がっていけば、やがては「内側」か「外側」かではなく、「どの程度の重なりがあるか」に思考が変わるのではないでしょうか。
つまり、「外側」として絶対的に拒絶するのではなく、「誰に対しても重なる部分はあるはずだ」というマインドで人と接することができるかもしれないということです。
すると、自らその「重なり」を探し、求めようとするでしょう。
そして、そんな態度で接してくると、人は心を開きやすくなり、「重なり」も見つけやすくなるというサイクルが生まれます。
これが「オープンマインド」ということなのかもしれません。
もちろん、「重なり」の大小はあるでしょうし、完全な「重なり」を求めることはできないとも思います。
その微妙な何かを感じながら、自分を追い詰めることなく、可能な限り自分の「内側」を広げていく作業。
これは「折り合い」につながるものでしょう。


最初から「内側」にいる「同質で居心地のよい人」とだけの付き合いだけでは、そのようなマインドは醸成しません。
そのようなマインドは様々な人との意図的あるいは偶発的な出会いにより醸成していきます。
その先には、「内側」も「外側」のない世界があるのかもしれません。
アドラー心理学のいう「共同体感覚」や、禅の説く「空」の世界にも通じるものかもしれません。
ここまでくると宗教的な色合いが濃く感じられますが、とにもかくにも似たような感覚を得た人が時代や地域を問わずいたのかもしれないなぁなんて空想しました。


「ともだち」の定義から空想した時間。
「内側」を広げよう。
「重なり」を探し求めよう。
そんな心の構えは、「ともだち」を増やし、幸せの感受性を高めると思います。


<リンク先より引用>
"僕にとっての「ともだち」の定義は、と、ふと考えてみると、
「相手に求められたら、自分のできる範囲で助けようと思える人」
となるかと思います。
もちろん、僕も困ったら、相手に助けてほしいな~とは思いますが(笑)、それよりも、僕→相手、というベクトル。
それを相手が受け入れてくれたら、「ともだち」関係が成立する、のような感じです。"