「意見を言うには根拠が必要」ということの重要性が"経験的に"わかっている子どもは、とてもラッキーなのだと思います。
意思決定や合意形成の場面では、何となく空気を読みながら、例えば有力者の意に沿うように、でもそれがあたかも「集団の総意」であるように多数決で決めていくといくことは普通にあると思います。
しかし、同じようなシチュエーションでも、「意見には根拠」というマインドが染み付いている集団が「空気を読んで」意思決定することと、そうではない集団が「空気を読んで」意思決定をすることは大きな隔たりがあるように思います。
意見に根拠をセットにするのは何のためでしょうか?
それは、「皆が幸せになりやすい」からなのだと思います。
根拠なき意見の羅列に比べたときに、根拠のある意見には別な根拠に基づく異論が出てきやすいことでしょう。
そこでの意見のぶつかり合いの本質は、「どうしたら皆がいい思いをできるのか」ということなのだと思います。
つまり、「意見には根拠」という集団の底には、「一人も見捨てない」というマインドが存在していると言えるのではないでしょうか。
あるいは、そういう集団の中で自らの利益を最大化するための方便として「根拠」を使おうとする人間がいても、やがては「自分も集団も、皆の利益を最大化」する戦略が実は合理的であることに気づき、独りよがりな意見は自然と消え、「集団としての最適解」を導こうというマインドが育成されやすいように思います。
何でもかんでも、根拠、理屈で進めようという立場に対して、日本的な「空気を読む」、「相手の気持ちを察する」ような繊細なマインドもいいなぁと思います。
でも、それは、「意見には根拠」という基本的な考え方の上にあって欲しいと思います。
真に人の心を動かすためには、完璧な理屈、根拠だけでは十分ではありません。
「意見には根拠」という考え方に裏打ちされた「察する」文化は、また素敵なのだと思います。
そんなことを頭の隅に置きながら、今、目の前の生徒にとって大事だと思えることを、一つ一つ積み重ねていきます。
以下のリンク先より引用
http://d.hatena.ne.jp/miyakichi/touch/20120117/p1
"意見交換で相手を説得するには根拠が必要なんです。上の方にも書いたけど、根拠を挙げようと思ったら、「ぼくは/わたしはこれが好きだから、みんなこれに賛成するべき」なんて小学生ですら恥ずかしくて言えなくなります。たとえタテマエでもいいから、「なぜこれが集団の員全体にとって有益なのか」を示さなければならなくなるわけで、全員が頭をひねってその「なぜ」を考えるうちに議論が深まり、より考え抜かれた意見が形成されていきます。"
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admin (水曜日, 20 4月 2022)
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