卒業式に思うこと

3月24日に卒業式があり、翌日3月25日に修了式がありました。そこで卒業式についての文章を学級通信に掲載しました。以下、その文章を転載します。

 

「卒業式」は新宿山吹高校の一年の中で最も素晴らしい一日だと思っています。
昨日の卒業式も素晴らしいものでした。
通信制の在校生の送辞を紹介したいと思います。

 

コミュニケーションが苦手だった。

でも、ある体育の授業で組んだ卓球のパートナーの方が、優しく接してくれて、色々な話もしてくれた。

人と交わる素晴らしさを教えてもらった。

わずか数週間の付き合いだったけれど、別れるときに「君なら誰と組んでも大丈夫」と声をかけてもらい、泣きそうになった。

勇気がないばかりに名前も聞けなかったけれど、この場を借りて感謝したい。

名前も知らないあなたとの出会いは、私の人生の大切な宝物の一つ。

あの出来事をきっかけに私は色々なことに踏み出せた。

思い返してもただ感謝しかない。

そして、今ここにいる卒業生の皆さん。

一人一人が誰かの宝物になっていることと思う。

私も後輩たちにとって宝物になれるよう、残りの学校生活を送りたい。

本当にありがとうございました。

 

学校生活の何気ない時間や何気ない会話が、ときに「何にも代え難いかけがえのないもの」になり得るのです。
そこには、必ずといっていいほど、「人が人を底から信頼し、信じること」があるように思います。
多くの人が多くのエピソードを語りますが、人が人生を開いていける原動力は、つまるところこんなシンプルなことなのだと思います。

 

昨日、卒業式後の会で、お世話になったある先生にメッセージを送る役をいただきました。
4年前、都立教員として初めての異動で新宿山吹にやってきてから、日々のカルチャーショックと何をやってもうまくいかないもどかしさと悔しさと惨めさで、消えたくなるくらい落ち込んだことがあります。
でも、そんなときも含めて、その方からは「大野さんはいい教育をしている。間違っていない」と励ましをいただいていました。
中身のアドバイスは必要ないのです。
ただ、「この人は僕を信じてくれているのだ」というだけで自分の存在そのものが肯定される感覚があるのです。
それだけで日々を生きていくことができたのです。

 

今から9年前、私立高校で非常勤講師として働いていて、「教員」として初めて出席した卒業式。そこで、当時の校長先生がこんな話をされていました。

 

「祝福」は、3つに分けることができるように思う。
①ただそこにあなたが「いる」だけで得られる祝福
 あなたが生まれたとき、両親はあなたという存在を心から「祝福」したはずである。
 あるいは、近しい人が亡くなりそうな時に、ただそこにいてくれるだけでよいと願う気持ちも、存在への祝福から来るものである。
②目指すものを得たときに得られる祝福、あるいは、目指していることそのものに対する祝福
 これは、あなたが「為したこと」あるいは「今為していること」に対する祝福である。
 最近では、荒川選手の例がこれにあたる。
③これから広がる果てしない未来への祝福
 これから体験するであろう様々なことに対する祝福。
 無限の可能性を持っていることに対する祝福。
そして、私は、この3つすべての意味で、皆さんを心から「祝福」したいと思う。

 

卒業式は、卒業していく生徒たちを「祝福」するための場であると思います。
一人一人にはそれぞれの物語があります。
様々な出会いがあり、多くの人と交わり、それぞれの物語はそれぞれに紡がれていきます。
それぞれがそれぞれにもがき、苦しみ、悩み、時に言葉にならないような辛さもありながら、言葉にできない達成感や喜びを感じたり。
そうして積み重ねられた日々のとりあえずの集大成が卒業式なのだと思います。
卒業生の呼名の間、一人一人の表情を見ていました。
色々な感情がわきあがってきました。

 

この高校生活が本当に素晴らしかったのだろうなぁという生徒。
単なる通過点ととらえ、次のステージを見据えている生徒。
まだまだ「レール」の上を歩んでいるようなぼんやりとした生徒。

 

実に色々な生徒がいます。

 もしかしたら「素晴らしい高校生活を送れた!」と胸を張れる生徒ばかりではないかもしれません。
うまくいかなかったり、不安だったり、苦いものを常に持ちながら、這い蹲るようにして毎日を過ごしてきた、あるいは今も過ごしている人があるかもしれません。
「素晴らしい高校生活を送れたのだから」→「君たちは祝福に値する」ということは、条件付の祝福だと思います。

 

僕は、全ての卒業生が、まずは「高校卒業」という一大事を成し遂げたということはそれだけで十分祝福に値すると思っています。
それは、「為したこと」への祝福です。
しかし、それだけではないのです。
卒業式では、卒業生には、「為したこと」だけでなく、「これからの可能性」、そして「ただそこに在るということの大切さ」に対しての「祝福」を受けて欲しいと思っています。

 

ここに来てくれてありがとう。
一緒に過ごしてくれてありがとう。
共に「在って」くれてありがとう。
ただそれだけでありがとう。

 

そんな想いで卒業生を送り出す日なのだと思っています。
存在そのものの肯定なのだと思っています。
かつて自分がそうされて、そのことだけで最後の最後で腐りきることなく人生の一歩を踏み出すことができました。
卒業式は、そんな気持ちを素直に、率直に相手に伝えることができる、本当に素晴らしい日なのです。
「卒業おめでとう」という言葉は実はとても奥深いものなのだと思います。
化学の松本隆行先生のメッセージを引用させていただきます。

 

卒業式でした。
送辞で、先輩に温かく接してもらえて人と交わることができたと言った在校生の言葉が良かったです。
自学自習の校風で、でも周りの人の支えがあったからこそと言った答辞が良かったです。
「しばしば、人は正解を選ぶのではなく決めるのだ」という言葉を引用した保護者保証人の会のお母様の祝辞は良かったです。
新宿山吹は特殊な学校ですが、その中で生徒をどのように育てるかを開校以来教員がずっと考えてきた結果が今日に引き継がれています。またそれに答えてきた歴代の生徒が後輩に道を残しています。
来年の私はたぶん冷静ではいられないと思います。卒業式は好きです。振り返らずに学校を出ていく生徒を見送るのが好きです。
おめでとう。あなたはあなたに勝利したのだ。

 

教員は皆、卒業生を「祝福」しているのです。
また、在校生である今の皆さんにも感じて欲しいことがあります。
「航跡(みをすぢ)」を材料に考えてみることにしましょう。
「航跡(みをすぢ)」は、山吹の最も素晴らしいところが凝縮された本だと思います。幾人もの生徒、教員の想いが詰まった、かけがえのない本です。
この本が、僕は大好きです。
2年前のHRで、この本と関連してこんな話を紹介しました。

 

今つめる花をつめ
船に乗って、川を下っています。
川の近くにはお花が咲いています。手の届くところにある花もあれば、上流、下流の手の届かないところにある花もあります。
これからたどり着くであろう下流に、とても素敵な花が咲いていました。それを見て、早くその花をつみたいなぁ、今手の届くところにある花なんかとは比べ物にならないもんなぁ、と思って、その花を見続けていました。
でも、しばらくすると、すでに通りすぎた上流にある花の素晴らしさに気が付きました。でも、もう手は届かないのです。
今できることは、今つめる花をつむことなのです。

 

自分自身の高校時代を振り返ると、「こんなところに長くいたくいない、とっとと卒業して次の世界に進みたい」と常に思っていました。教員という目標に向かうために、ここで学べることは少ない、そう思って、早く大学で専門的なことを勉強し、あるいは現場で経験を積みたい、そう思っていました。でも、それは、意味のない願望だったのです。


今つめる花を、今しかつめない花を、できるだけたくさんつんで下さい。
「みをすぢ」を是非、読んでください。卒業生がつんだ花を見ることができます。
そして一年後。皆さんがどんな「みをすぢ」を見せてくれるのか、楽しみにしています。

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コメント: 2
  • #1

    sextelefon (火曜日, 31 10月 2017 22:48)

    niekoszerujący

  • #2

    sex telefon (金曜日, 17 11月 2017 20:52)

    Chutkowice